日露戦争と歴史の真実
 ─『坂の上の雲』ではわからないこと一

2009年12月5日ねりま九条の会総会にて

    

           講師  山田 朗さん

     
          山田朗さんのプロフィール
  1956年 大阪府豊中市生まれ。 明治大学文学部教授(史学博士)
       専攻は日本近代史・日本軍事史・天皇制論。『大元帥・昭和天皇』で
       第20回野呂栄太郎賞を受賞。
      主な著書に、『昭和天皇の戦争指導』(昭和出版, 1990年)『大元帥・
       昭和天皇』(新日本出版社, 1994年)『軍備拡張の近代史——日本軍の
       膨張と崩壊』(吉川弘文館, 1997年)『歴史修正主義の克服——ゆがめ
       られた<戦争論>を問う』(高文研, 2001年)『昭和天皇の軍事思想と戦
       略』(校倉書房, 2002年)『護憲派のための軍事入門』(花伝社, 2005
       年)『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』(吉川弘文館, 2009年)
        


はじめに
 今日は、日露戦争とはどんな戦争であったのかを、国際政治・戦略面で検証して、今後歴史を振り返ったときに何を見落としてはいけないのかということをお話したいと思います。
『坂の上の雲』でわからないことは何か
 2010年は韓国併合から100年目の年にあたります。日露戦争と韓国併合は日本の植民地支配にとって切っても切り離せません。こういう観点は坂上の雲には出てきません。どちらかというと「日露戦争によって日本の国際的地位が上昇した」という観点です。これは実は坂上の雲に限らず、かなり一般的な考え方であると思います。「日露戦争によって日本は大国の仲間入りをした、一等国になった」という考え方です。一等国とは帝国主義国家の仲間入りをした、当時の大国の中でのステータスを獲得したということで、決して日露戦争が、日本がアジア代表で欧米列強と戦ったということではないのです。むしろ欧米列強の支援を受けて欧米列強の仲間入りをしたということです。

 

Ⅰ 近代日本の国家戦略:日露戦争への道
①明治維新以来の日本の対外戦略

 近代日本の国家戦略の中間的な帰結が日露戦争なのです。明治以来日本の政府はロシア脅威論に基づく軍備拡張を行ってきました。ロシアの南下政策にともなって危機を感じたということなのですが、考えてみると日本を取り巻く列強はロシアだけではなく、日本を開国させたアメリカや、イギリスやフランスも脅威であることに変わりはない筈です。ところがなぜロシアが脅威に感じられるのか、国境を接しているということはありますが、何といっても当時の明治維新政府やマスコミ関係者に圧倒的に影響事力をもったのはイギリスであるということです。当時の国家指導者たちはイギリスからの情報を基盤にして世界を見ています。イギリスは当時世界中でロシアと衝突しています。ヨーロッパ、バルカン半島、アフガン、そして極東で衝突をする。19世紀末から20世紀初頭の世界を動かす力関係の中で、日本はイギリス陣営に組み込まれていたということです。教科書に出てくる「お雇い外国人」で一番多いのはイギリス人です。当時の日本人はイギリスの目で世界を見ていたのです。たとえば駆け出しの新聞記者が最初にするのは英字新聞の翻訳です。幸徳秋水などもそうです。代表的なのはイギリスのタイムズや、ロイター通信です。つまりイギリスの反露戦略の反映で、最初からロシア脅威論がすり込まれていたわけです。

②ロシアの脅威に備えるための北進論

 ロシアの脅威に備えるために朝鮮半島をロシアより先に取るべきであるということで、維新直後には征韓論がでてきます。迫ってくるロシアから離れたところで対処するために、朝鮮半島に日本が先手を打って出て行って、影響力を強めて、日本から離れたところでロシアを食い止めるという考え方ですが、そのためにロシアではなく、中国と衝突してしまう。朝鮮半島には中国が大きな影響力を持っているからです。そこで対露戦略を、一時、対清(中国)戦略に転換して、朝鮮半島への勢力拡大を図ることになります。日清戦争と日露戦争はセットなのです。
 当時の国家指導者たちは、「主権線」と「利益線Jという戦略発想を持っていました。「主権線」は国境線、国境線を守るためには、その外側に「利益線」という線を引いて、そこを守っておかないと勝利できない。「利益線」こそが日本にとっては朝鮮半島だったのです。
 この考え方は日露戦争によって大きく変質するのです。日露戦争後、日本は当時の大韓帝国を併合しました。となると朝鮮半島までが新たな「主権線」になるわけです。今度はそれを守るためにその外側に新たな「利益線」を確保しなければいけない。それが南部満州国です。日露戦争後、韓国を併合することによって、「主権線」と「利益線」という考え方はどんどん外側に膨張するための論理に変わって行くのです。日露戦争は外側に膨張するための踏み切り台になったような戦争であったということができると思います。
 実はその前から日本には、北進するか南進するかという論議がありました。日清戦争で台湾を獲得したものですから、台湾を足場にして福建省の方に出て行ったらどうかという考えです。実際1900年、北京郊外で起こった義和団事件の混乱に乗じて、当時台湾総督だった児玉源太郎が主導して、福建省の厦門(アモイ)に派兵したのです。ところがこれは列強のすごい反発をくらってすごすごと引き上げざるを得なかった。南進はもろにイギリスやフランスと正面衝突しなければならないことになり、いくら何でもできないということで、北進論になったわけです。北進論をとればイギリスを味方にできます。当時の世界の力関係は「独仏同盟」が非常に強力に作用していました。それに対してイギリスは日本と「日英同盟」を結んで「独仏同盟」に対抗し、ロシアに対抗するという路線をとっていました。イギリスから見れば日本は小国ですが、日本を軍事大国に成長させることによって、極東に於けるパートナーにさせようと考えていました。「日英同盟」が日本に与えた影響は非常に大きなものがありました。

③朝鮮(韓国)へのロシアの影響力拡大
 ロシアは中国が日清戦争で急激に弱体化したので、その機をとらえて一気に南下してきました。日露の双方の膨張主義が南部満州、朝鮮を巡って衝突するということになります。どちらにとっても自衛戦争ではないのです。日本では自衛戦争論が言われますが、そこまで出て行って行う自衛戦争などは、普通は考えられません。朝鮮半島、遼東半島が自国のものだという前提に立たなければ、自衛戦争論にはならない。日本は朝鮮半島を確保したい。ロシアの影響力を排除して、さらにその外側にある満州に影響力を強めたいということで日露戦争に突き進んだわけですし、ロシアはロシアで満州を独占したい。そして満州を独占するだけでなく朝鮮に影響力を強めたい。こういう考え方で日露は衝突することになりました。

 

Ⅱ日露戦争の実像と世界史的意味
 ①「日英同盟」の役割
 日露戦争は世界的な英露対立の一部として極東で爆発するわけですが、「日英同盟」の締結(1902年)の影響は非常に大きいのです。イギリスにはこの当時、ロシアと闘う余力がなかったのです。なぜなら、ボーア戦争、今の南アフリカとの戦争で思いがけず消耗してしまっていたのです。ボーアはダイヤモンドと金の産地で、イギリスには咽喉から手が出るくらいほしかったのですが、そこにはすでにオランダ系の人が植民していました。これを奪い取る戦争をやったのですが、ボーア人は頑強で、ゲリラ戦でイギリス軍が悩まされていました。出費も多く、陸軍は南アフリカにくぎ付けにされ、財政的にも消耗していました。ですから極東に派兵する余裕がないのです。そこで日本の軍事力を使ってロシアの南下を食い止めたいというのがイギリスの戦略です。余力があればバルカン半島やヨーロッパで戦争を挑むことができたのですが、ロシアは大陸軍、イギリスは海軍ですから陸戦を挑むのは不利なのです。ですから日本を支援することで、ロシアをくぎ付けにして疲弊させるということです。そのために軍事的、経済的支援を日本にするわけです。
②日露戦争は情報戦の幕開け
 1902年、イギリスの世界海底ケーブルが完成しました。これはイギリスが50年間かけてやってきた事業で、ロンドンとイギリスのすべての植民地を、海底ケーブルによる通信網で結びます。アメリカも太平洋を海底ケーブルで横断させてフィリピンに持ってきて、フィリピンから香港につなぐことで、世界が、張り巡らされた海底ケーブルの通信網で結ばれました。有線電信です。モールス信号で情報が送られます。日露戦争の情報は、ほぼ翌日にはヨーロッパやアメリカで報道されています。ただ報道されるだけでなく、例えば、バルチック艦隊は今どこまできているかなどという情報がすぐに伝わってきます。また軍隊の動員数などもヨーロッパにすぐ伝わり、日本にも伝えられます。イギリス側の情報網を日本はフルに活用することができるということで非常に重要なことです。イギリスは情報網を使ってロシア側への情報工作(撹乱)を行い、ロシアは翻弄されます。報道通信権をアメリカ、イギリスが握っていることで、正確な情報がロシアに伝わらない反面、ロシア軍にとっては悲観的な情報が入ってきて士気を弱めていきます。バルチック艦隊は絶対に負けるという情報が世界中に広がり、ロシアにも伝わってロシアの士気を低下させるというわけです。日露戦争は考えられている以上に情報戦だったのです。前線でも無線や有線電話が使われていました。軍隊が移動するところには必ず電柱が立てられ通信が可能になっていたのです。日本側が戦力的には少ないにもかかわらず、先手を取って攻撃できたのはそこなのです。日本側は電信によって連携がとれていたけれど、ロシア側は大群なので連携がとれていなくてばらばらなのです。そこが、日本側が優勢に立てた重要なポイントなのですが、そのことは『坂の上の雲』にも出てきませんし、日本軍の公式な戦史にもあまり出てきません。そういうことは秘密にされたのです。秘密にしているうちに、自分たちにも伝わらなくなってしまったのです。児玉源太郎はそういう秘密を一番良く知っていたのですが、彼は日露戦争後、割に早いうちに亡くなってしまったのです。児玉源太郎は、海底ケーブルに目をつけて日本と台湾の間に海底ケーブルを結び、そこから福建の方に延ばしてイギリスの海底ケーブル網に接続しました。彼は『坂の上の雲』では有能な軍事戦略家というふうに描かれていますけれど、実像の児玉源太郎は軍事的にはそれほど有能というわけではなく、むしろ情報を重視したという点で非常に優れた人でした。
③ロシアの中国進出を防止するために
 通信網だけでなく、日本海軍の主要艦艇20万トンのうち70%、戦艦8隻の全てと、装甲巡洋艦の半分4隻はイギリス製でした。しかも当時最新の戦艦でした。イギリスは日本に最新の軍事技術をつぎ込んだ軍艦を日本に提供しているのです。日本陸軍が使った銃砲弾の約半分はイギリス、あるいは一部ドイツから輸入したものです。日本では砲弾の製造が間に合わないのです。日本側が予期した以上の消費量で、あっという間に日本側は銃砲弾が枯渇していまします。開戦から4ヶ月で完全に枯渇する。6月にあった中規模の闘いでは弾が無くなったので石を投げたといいます。日本はドイツに学んで火力主義、つまりできるだけ大砲や鉄砲を使って戦おうという立場に立っていたのですが、実戦ではそれが実現できない。製造技術もないし、お金もないので、日露戦争が始まってから、日本は借金にいきます。日露戦争の戦争費用は18億円かかっていますが、その内の約40%を外債で賄ってきました。
④日本の「勝ちすぎ」を食い止める
 貸してくれたのはイギリスとアメリカです。ロシアの南下を防ぐために日本の軍事力を使うためです。しかし、日本が圧勝してしまって満州を独占したら、それは困る。日本の「勝ちすぎ」は困る。そこがイギリスの狡猾なところです。日本が勝ってロシアが崩壊しては困るので、日本の勝ちすぎは食い止める。そのため日本海海戦後、すぐさまイギリスは水面下でロシアに接近するのです。後にイギリスは「英露協定」を結んでしまいます。
⑤世界にリアルタイムで報道された日露戦争
 世界の反ロシア世論を英米マスコミが主導して形成します。日本軍が破竹の勢いで勝っていると報道することで、イギリスやアメリカで発行した外債の売れ行きをよくするためです。日本は戦費を調達できて順調に戦争ができるわけです。ロシアはダメだという情報が伝わると、ロシアも外債を発行して戦費を調達しているのですが、集まらなくなります。ですからストレートに戦費調達にかかってきます。1904年5月に、日本は本格的な陸戦としては初めて、鴨緑江(こうりょくこう)の戦いが行われますが、日本側がロシアを駆逐します。このニュースは即座にヨーロッパ中に伝わり、ちょうど日本の第一回の外債発行が迫っていたのですが、前評判が悪くて売れるかどうか心配されていたのです。ところがこの戦いで日本側の圧勝が伝えられたもので、外債の募集は大成功をおさめます。外債の金額は、04年5月には1000万ポンド、日本円ではおよそ一億円、2回目の04年11月には1200万ポンド、利子は6%でお買い得でした。当時の外債はだいたい利子が4%なのですが、それでは売れないので6%にして売りました。いくら利子が高くても日本が戦争で負けたら元も子もないので、日本圧勝、しかも黒木司令官は連戦連勝であるということが盛んに報道されたため、外債の売れ行きには大きな影響がありました。その後はアメリカが買ってくれました。イギリスの場合は銀行が買うのですが、アメリカには二つの大きな金融資本があって、ひとつはモルガン商会もう一つはユダヤ資本のクーン・レープ商会(今のリーマンブラザーズ)による日本支援がありました。クーン・レーブはハリマンという鉄道王に融資していました。ハリマンは満州に鉄道を通したかったので、日露戦争が終わると日本にやって来て、桂首相に満鉄をアメリカと共同開発することを提案しました。桂首相も合意するのですが、講和会議から帰国すると猛反対に会い、拒否することになってしまいました。クーン・レーブ商会は日本が勝てば満州開発で一儲けできるということで日本国債を買ったのに、日本がアメリカを占め出したということで、ここから日本とアメリカの関係はぎくしゃくしていきました。
 『坂の上の雲』では高橋是清が外債を売りにいったという話は出てきますが、ハリマンのうしろにクーン・レーブ商会がいたという世界の資本のからくりについては全く気がついていません。
 アメリカは「日露戦争講和」で大きな役割を果たしました。アメリカのポーツマスで講和条約は結ばれました。しかし、アメリカが斡旋した真の理由も、やはり日本の勝ちすぎ防止なのです。ロシアの南下の防止はアメリカの意図なのですが、しかし、日本が満州を独占してしまっても困る。日本が満州を確保したら日本とともに満州に入っていこうというのがアメリカの戦略だったのです。ところが日本はロシアと協定を結んだのです。「日露協約」という条約を結んで満州を分割する密約を結んでしまいます。アメリカは入れない。このあたりから日米関係は非常にぎくしゃくしていきます。
 当時の日本は外債募集にかかっていたのです。外債募集が成功しなければ戦争の継続は不可能なのです。当時の日本の戦争経費18億円は実に国家予算の6倍でした。そのうち4割を外債に頼らざるを得ない。イギリスやアメリカのバックアップがなければ戦争に勝てなかったということを、後世の日本陸軍の軍人たちは全然知らない。知らないからこそ青年将校は高橋是清を2、26事件で殺してしまうのです。まさに日本陸軍の栄光を支えていたのは高橋是清たちなのです。そういう意識は昭和期の日本の軍人にはありませんでした。「先輩たちが勇敢に戦ったから日本は勝てたのだ」という極めて単純な理解でしかないのです。
⑥ヨーロッパにおける情報収集
 『坂の上の雲』だと明石元二郎らは、ロシアの革命派に武器を渡したとか、ポーランドの独立運動家に武器を渡したとか、資金を提供したとかいうことになっていますが、当時日本が提供できる資金などは大したことはないのです。明石元二郎らのやった本当に重要なことは新聞情報の収集です。ヨーロッパに報道されている新聞情報を彼は丹念に調べて、それを日本に知らせた。一見単純なことですが、当時ロシア軍の方には、情報を統制して重要な情報が外に漏れないようにしようという発想がないのです。ですから不用意に情報が新聞に漏れてしまうのです。それを当時のヨーロッパは詳細に紹介していたので、明石たちはそれを収集して有線電信網を使って、日本に知らせるということをやっていました。戦後になると、そういう大事なことは隠しておこうということで隠され、大して重要ではないことを針小棒大に面白おかしく伝えられてきました。
⑦国力・戦力の限界を見きわめた戦争指導
 日露戦争はロシア側の事情で終わらせざるを得なかったのです。ロシアの国内で革命が勃発して、革命への対応を優先せざるを得なくなり、軍の士気も低下したのです。エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」に見るように、軍隊の中で革命が起きたわけなので、軍隊の鉄砲が、下手をすると皇帝の方を向く可能性が出てきたので、戦争を中断せざるを得なくなりました。だからロシアには、日本に力負けをしたという意識があまりないのです。海軍は完ぺきに負けるのですが、ロシアは陸軍国ですから、陸軍が完膚無きまで負けたという意識はないのです。だから賠償金は払わないというわけです。あるいは領土的な要求は一切受けつけないと言います。実際は樺太の半分を妥協しますが。これは日本が樺太全土を占領していたからです。既成事実をつくってしまったので、半分はということで妥協しました。
⑧日露戦争が世界政治に与えた影響
 世界史的には日露戦争の過程でイギリスはロシアと接近しはじめます。イギリスは日露戦争の最中にフランスとも手を組んで英仏条約を結んで、独仏同盟を分断してしまいます。つまり、日露戦争が終わった時点でイギリス、フランス、ロシアが手を結んだわけです。ドイツに対抗するためです。ですから10年後に起きた第1次世界大戦の力関係をつくってしまったのです。日露戦争は第1次世界大戦の序幕であるということができます。日露戦争の中で、英・仏・露対独という構造がつくりあげられていったのです。実はドイツはドイツで、ロシアに付くかイギリスに付くかと悩んでいたのです。ドイツは武器を日本に提供しながら、実はロシアにも接近しようとしていた。例えばバルチック艦隊の石炭はドイツが補給していたのです。ドイツの商船がバルチック艦隊にくっついて石炭補給をしていたのです。ドイツはイギリス陣営にある日本に付くのか、ロシアに付くのか立場を明確にしないで、どっちにも恩を売るようなことをやっていたのですが、イギリスの方が「次の敵はドイツだ」と定めてしまったので、バルチック艦隊には途中で石炭を補給できる給炭地がなくなりました。そのため、洋上で民間の給炭船から運び入れる作業を3回行っています。この作業は最も重労働なのですが、これを日本に近づく直前にやってへとへとになっているときに日本海海戦になってしまったのです。ロシア側は日本に接近したときに、いきなり開戦をしようとは思っていなかったのですが、日本側は水兵が一番疲れているとき、しかも数ヶ月間演習らしい演習をやらずに来たわけですから、海戦では圧倒的な違いとなったわけです。  

Ⅲ日本陸軍の戦略:成功と失敗
 日本陸軍は前半は順調にいきましたが、後半には銃弾不足でうまくいきませんでした。反対に海軍は、前半は失敗が多かったのですが、経験を重ねていくうちに成功することが多くなっていきました。しかし、いずれにしても失敗の山です。ではなぜ勝ったのかといいますと、ロシアの方が失敗が多かったからです。
日本陸軍の失敗(戦争後半)
①南部戦線(南山・旅順)での大損害

 『坂の上の雲』では乃木大将が無能で、児玉源太郎が天才的な才覚で成功に導いたとなっていますが、そんな簡単なことではありません。もともと日本は本格的な要塞を落とす方法は知らなかったのです。本当はトンネルを掘って下から爆破するしか手は無かったのです。実は乃木大将もそれをやろうとするのです。しかし、軍部はバルチック艦隊が来てしまうことを恐れて急がせ、時間のかかる穴を掘る方法を採らせなかったのです。実際にはバルチック艦隊は8ヶ月もかかったのですが。乃木としては、準備は整っていないのだけれども、急いでやるしかなかった。そして膨大な犠牲を出してしまったのです。旅順要塞攻略失敗での大損害は、乃木の責任というよりは、日本の軍部に攻城のプランがなかったのと、重砲兵火力の絶対的不足のせいなのです。正攻法をとっていれば成功できたのです。

②北部戦線(遼陽・沙河・黒溝台・奉天)でロシア軍主力に決定的打撃を与えられず
 日本陸軍はなぜ北に進んでいったかというと、ロシア軍に打撃を与えて、ロシア軍に戦力を蓄積させないことが目的だったのです。ロシア軍は増兵力が多いので、どんどん増兵され、蓄積された戦力が南下してきたら勝ち目がないからです。ところが日本軍は要地の占領は果たしたけれども、ロシア軍は兵力の温存が最終的には有利になるということでどんどん後退していく、それを追撃しようとすれば、日本軍は日本本土から離れていく。兵站線(補給路)が伸び、次弟に危険な状態に陥ってしまった。さらに北へ向かっていったらさらに危険な状態になったのですが、その前に戦争が終わったのでした。
 日本陸軍は砲弾消費の見積もりに失敗して、弾種選定の誤りや、射撃の未熟もあり、銃剣に頼らざるを得なくなったのです。しかし日露戦争後、「日本軍は、弾は無くても戦える」と総括されたのです。「白兵主義こそが戦国時代からの、日本の伝統的な戦いである」と。なぜなら軍部が自分たちで総括したからです。自分たちの失敗を認めないで、「それしか方法はなかった、そういう戦い方で良かったということにしよう」という話です。日露戦争後、「歩兵戦法」という、歩兵の戦い方のマニュアルが改定されますが、それには白兵主義がとられることになりました。「射撃は敵に接近するための手段であって、接近したら銃剣突撃で勝敗を決する」という考え方に変わりました。それは火力主義を貫徹するだけの経済力が日本に無かったということなのですが。それと「少数兵力で大兵力を打ち負かす。これこそが日本軍の伝統である」という総括です。しかしこれは戦争の歴史の中でまれにしか起きないことなのです。まれにしか起きないことを常に実現する。しかも弾が無い。日本軍は日露戦争によって変わってしまうのです。非現実的な軍隊になってしまうのです。


Ⅳ日本海軍の戦略:成功と失敗
①日本海軍の失敗(戦争前半)

 日本海軍は戦争前半に大きく失敗します。旅順艦隊を旅順口から引っ張り出して叩きつぶす作戦だったのですが、旅順艦隊は出てこないのです。実は旅順口閉塞作戦を3回行うのですが。犠牲が多くいずれも閉塞に失敗します。
 第2回閉塞戦のときに広瀬中佐が戦死します。戦術の失敗なのですが、軍は、広瀬中佐を軍神として祭り上げ、誰も批判できないようにしてしまいます。この後でも、軍神が生まれるときは失敗したときなのです。戦術の失敗を批判させないために祭り上げるのです。旅順閉塞戦の最中に、旅順沖でロシアの仕掛けた魚雷で、戦艦「初瀬」「八島」が沈没(1904年5月)をします。日本海軍はまともな戦いをしないうちに主力艦2隻と多数の人的犠牲を出してしまったのです。
②日本海軍の戦略の成功(戦争後半)
 蔚山沖海戦(8月)では、上村彦之丞という人が初めてロシア主力艦(装甲巡洋艦)を海上で撃沈しました。それ以前に日本側が沈めた船もあるのですが、それは機雷で沈めたのです。『坂の上の雲』では秋山真之が天才的な戦略で日本海海戦に勝利したように描かれていますが、蔚山沖海戦での成功をもとに、秋山真之たちが作戦立案をして成功したのです。日本海海戦は大砲の撃ち合いによって艦船は沈むのだということを世界中に示した最初の大海戦です。それまでは一万トンを越えるような大型艦船はそう簡単には沈まないだろうと思っていました。ですから当時の軍艦の先には、水面下に飛び出た角が付いていて体当たりをするようになっていたのですが、日露戦争で、大砲で撃っても沈むということが実証されたものですから、三笠までは付いていました。それ以後は衝角は一切付かなくなりました。そして “大艦巨砲”のブームが起こり、戦艦「大和」につながっていきます。

Ⅴ『坂の上の雲』の歴史認識の危うさ
①歴史上の人物になりきる司馬遼太郎の技法

 司馬遼太郎は人物の性格描写が上手い人です。結論的なことをまず言ってしまってから、具体例を書くという手法を使っています。明石元治郎は変人であると書いてから具体的なことを書く、次の段落また明石元治郎は変人であると書いてまた具体例をかく。すると、読み手は「明石元治郎は変人である」というふうにすり込まれてしまいます。ある程度は資料に基づいています。しかし、重要なところでは歴史上の人物になりきって、「彼だったらこう言うに違いない」という視点で司馬遼太郎は書いています。歴史小説だからこれでいいのです。歴史学ではないのでこれでいいのです。ところが、司馬さんは「これはフィクションではなく史実に基づいているのだ」ということを書くのです。すると読者はフィクションの部分までもが史実であるような錯覚をしてしまう。それを史実だと本当に信じてしまう人がいるのも事実です。
 歴史上の人物になりきって書くというのは、一見すると良さそうですが、それは、その時代に生きていた人の価値観と感性だけで、その当時の歴史を見ようとする、同時代史的な把握でしかないのです。植民地支配の問題などは当時の人には見えていないのですから、出てこないのです。歴史は、当時の人が何を考えていたか、どういう価値観を持っていたかを掴むことも大事なのですが、しかし、今だからこそわかることを知ることも大事なのです。そうでなければ一歩も進歩はないわけです。当時は何が見えていなかったのかということを知ることも大事なのです。ですから当時の人物になりきって書こうとすると、その部分が抜け落ちてしまうのです。
②明治と昭和の連続性を無視する歴史認識
 司馬さんは学徒出陣で戦地に行った軍人さんだったこともあって、当時の情けない陸軍を見ているので、現実的で合理性に貫かれた明治時代と非現実的で非合理性に満ちた昭和時代という捉え方をするのです。それは同時代人にとってなるほどと思わせるところがあるに違いないのです。
 ところが昭和の大失敗は、日露戦争でその種が蒔かれたのです。「少数で弾がなくても勝てる」は、まさに日露戦争でつくられてしまったのです。本当の姿が伝えられないで虚構の日露戦争が伝えられてしまったのです。 
③司馬史観の問題点
 その時代の国家指導層の眼で歴史を捉えるので、植民地支配や日露戦争は韓国併合への一里塚であるという考え方には立てない。実は日露戦争の最中から日本の国家指導たちは、日清戦争の後の三国干渉があるもので、韓国をわが物にするためには欧米列強を納得させる必要があったのです。まず「日英同盟」の改定をしますが、その時にアジアにおけるイギリスの植民地政策を無条件で認める代わりに、日本の韓国支配を認めてくれと、フランスに対しては「日仏協定」でフランスのインドシナ支配を全部認める代わりに、日本の韓国支配を認めてくれと、アメリカとは「桂・ダフト協定」を結び、ロシアとは「日露講和条約」で朝鮮半島の処分権は日本にあるというように、列強に対してアジアの植民地支配を認める代わりに日本の植民地支配も認めるようにという取引を行ったのです。韓国の皇帝がハーグで開かれた平和会議に密使を派遣して、「このままでは韓国の主権が侵される、日本に併合されそうだ」と訴えるのですが、列強はだれも耳を貸さないのです。あらかじめ列強の承諾を取っていたからです。これはまさにパワーポリテックスです。

おわりに−フィクションと史実
① 日露戦争というのは世界的な政治力学が生んだ戦争です。日本はイギリス陣営に取り込まれて戦争をやったわけです。それで全面的にイギリスの支援を受けます。しかしそれには見返りが求められる。つまり日本は満州を独占しないことです。アメリカも日本を支援したのは、ロシアが満州を独占しては困るからです。といって、日本が独占しても困るので、適当な時期に戦争は打ち切る。打ち切るのは外債を止めればいいだけのことだから簡単です。
② 本質的な失敗要因と真の成功要因をともに日本軍は隠ぺいしてしまった。失敗を隠し、「それこそが日本的」と総括してしまった。たとえば「少数で弾がなくても勝てる」など、白兵主義への傾斜や、少数兵力による多数兵力の打倒などです。心構えとしてはそれでも良かったのかも知れないけれど、それが「歩兵戦法」のような文章になってしまうと、そうでなければならないとなってしまいます。
成功の原因は確かにありました。しかし成功の真の要因を隠し、教訓が生かされなかった。例えば、外債募集や、通信を使った情報収集・情報伝達の成功、部隊間の相互協力の成功などは秘密とされ、勝利の要因が個人や個々の部隊の勇戦敢蹄としてまとめられ、虚構の日露戦争、虚構の日本軍の強さが伝えられることになってしまいました。
③ こういう日本軍の「伝統」というものが、日露戦争によってつくられてしまった。本来失敗だったことを「成功だった」と言いくるめてしまう伝統。こういうのを歴史学では“伝統の創造”といいます
そのため、日本軍は太平洋戦争を「日露戦争の頭」で戦ってしまったのです。それで惨憺たることになってしまったのです。伝統そのものが虚構であったということです。当時の才能やテクノロジーをいかに駆使するかが、実は重要だったのですが、そういうことは一切継承されないで、日露戦争が誤って伝えられてしまったこと、韓国併合の一里塚としての日露戦争であったのだということを認識することは、今日、私たちが日露戦争を振り返るときに、やはり必要なのではないかと思います。