あなたが開く新しい日本の扉

ー九条の会・憲法を力の源泉にー

              講師 小沢隆一 さん

               2007年 12月8日     練馬勤労福祉会館にて                           

はじめに

 はじめまして、九条の会の事務局員をしています小澤です。
ねりま九条の会のみなさんの運動の盛り上がりは、先だっての全国交流集会でもひしひしと感じました。練馬の地でも各地域にたくさんの九条の会ができて、みなさん活発に取り組んでいらっしゃる。私は今、東京慈恵医大におりますが、昨年までは静岡大学で憲法を教えていました。静岡大学は、映画「日本の青空」の主人公の鈴木安蔵さんが初代の憲法学の教授となった大学です。鈴木さんは、静岡大学の教授になるまでに、映画に出てくるようにいろいろな苦労をされた末、日本国憲法の基礎になる憲法草案をつくって、その活躍が静岡大学の注目するところになりました。そして、「新制静岡大学の憲法学の先生には是非ともこの人でなければいけない」と、静大創設時の先生たちがみんなで東京の下馬の先生の自宅に押し掛けたのです。当時の学生たちも鈴木安蔵さんの名声は知っていましたから、「ぜひ静岡大学に来てください」と押し掛けました。鈴木さんは他の大学からも就任の要請があったそうですが、「学生まで来たのは静岡大学だけだ」ということで、意気に感じて静岡大学に赴任されたのです。私はその静岡大学の憲法学講座の五代目にあたります。鈴木さんは47歳ではじめて教授になったのですが、私は47歳で静岡大学を離れて今の大学に移ってきました。
 静岡は3・1ビキニデーなどの平和運動が盛んです。また、5月3日の憲法記念日を祝う地域の会が「九条の会」ができる前に16個所でき、相互に連絡をとりあって共同アピールを発表したりしていました。ですから、「九条の会」ができた時には、「私たちが求めていたのはこれだ」と、私も静岡県内の九条の会のネットワークづくりに加わらせていただきました。そんなこともあって、東京に来てから9条の会から声をかけていただいて事務局員をさせていただいています。

一、 参議院選挙をめぐって

1、参議院選の結果生まれた今の憲法をめぐる情勢をどうとらえるか。
 選挙は、あのように改憲を公約のトップに掲げる安倍自民党が大敗北を喫する、与党が過半数をとれずに民主党が参議院では第一党になる、与野党が逆転するという結果をもたらしました。これに危機感を持ったナベツネ(渡邊恒雄=讀売新聞社代表取締役会長)や森元首相などが画策をして、福田、小沢の党首会談を仕組んだ。これはあの選挙の結果が非常に衝撃的であり、それに恐れをなしたのだと思います。先だっての全国交流集会に参加された方はお聞きになったかと思いますが、加藤周一さんの挨拶の中で、「安倍さんの時はまだたたかいやすかった。安倍さんというのはあのように一本調子な、非常に好戦的なというか軍国主義を彷彿とさせる主張を繰り返してきた。そういう人を相手に九条を守ろうという運動はかえって盛り上がる。九条の会はこの三年間拡がりに拡がっていった。しかし、これからが大変だ。みなさんこれからが正念場だ」というふうに言いました。福田さんは自民党挙党態勢を組んで手練手管を使ってやってくるだろう。今こそ私たちは真剣にこれに向き合わなければならないということを言われましたけれども、まさしく自民・民主の党首会談はそういった新しい体制の怖さを物語っていると思います。これからも「今のような衆議院・参議院がねじれた状況は不正常な状態だからこれを何とか解消しなければならない、これで手を打ったらどうだ」ということがしきりと政治の世界では語られている。マスコミを通じて流される。でも私は今回の参議院選挙がつくり出した状況というのは、もともと憲法が予定をしていたものであり、これは主権者国民の民意が発揮されたものだのだということをしっかりと掴んでおく必要があると思います。その点では今の状況は何も臆することはないと思います。
 そもそも日本の参議院は諸外国の制度に比べてなかなか強い力を持っています。その強さは実は偶然生まれたものではなく、憲法そのものに根拠があるのです。日本のように二院制をとっている外国はたくさんありますが、しかし、諸外国の二院制は衆議院に比べて参議院の方が弱い、地位が低いという特徴を持っています。例えばイギリス、これは今でも貴族院を持っています。貴族は家柄で議員を代々受け継ぐわけですが、いまの時代、貴族身分が政治を代々とりしきるなどということはあってはならないということで、イギリスの貴族院は下院( 日本の衆議院に当たるところ) が作った法律をひっくり返してはならない、法律については口出しするなという形で、力を封印されています。ドイツやフランスの参議院にあたるところは、日本のように全国民の代表として選ばれているわけではなくて、地方の代表です。ドイツは連邦制を取っていますから、国民に直接選ばれていなかったり、下院(衆議院)に比べて権限が弱かったりということで、一段下の位に置かれている。そういう国々の参議院にあたるところに比べてみますと、日本の参議院は衆議院と同じように国民が直接選挙する、そして憲法43条に基づけば、衆議院も参議院も両方とも「全国民の代表」と位置づけられています。地域の代表ではないのです。主権者国民の代表だということをはっきりと憲法はうたっています。その選挙において示された民意はまさしく主権者の声と捉えることができます。そしてこの参議院選挙というのは、戦後の歴史を見ると、その時その時の重要な政治争点に対する国民の声が比較的よく反映されている。そういう特徴がある。衆議院の場合はどうしても首相の指名に力を持っているせいか、「政権選択」が気になります。とりわけ衆議院は今、小選挙区中心の制度にされていますから、政権選択として自民、民主のどちらにするのかというところばかりが強調されて選挙が行われる。マスコミもそういうふうな雰囲気をかもし出す。これによって衆議院の場合は、その時その時に問題になっている政治的な重要な争点がしっかりした対立軸を示して議論されないで、雰囲気で選挙されてしまうことが多い。ところが、参議院選挙の場合はその時の重要な争点が国民の民意が比較的はっきりと示されてきたのが特徴だろうと思います。例えば1989年に消費税が導入された直後に行われた参議院選挙では、土井たか子さんの社会党が勝利しました。その時土井さんは「山が動いた」と表現しました。あの時は、国民の消費税導入に関する怒りが参議院選挙で見事に発揮された。それと、98年の参議院選挙、こちらは当時の橋本龍太郎内閣が「六大改革」と称して小泉構造改革のはしりのような、国民の中の格差を拡大していく改革の先鞭をつけました。そしてまた、その時に消費税を3パーセントから5パーセントに上げました。こうした中で国民は参議院選挙で、こんな政治は変えてほしいという声をぶつけたわけです。その時、共産党などは比例選挙で約820万の得票をとった。そして、橋本首相はいさぎよく退陣しました。この時は参議院選挙のまさしく直後に退陣しました。ですから、参議院選挙というのは、その時々の重要な政治争点が比較的よく反映してきた選挙なのです。今回の選挙の場合は政治争点の中でもとりわけ重要な「憲法九条を変えるかどうか」ということへのはっきりとした判断が下された。安倍自民党は公約に改憲を掲げていたわけですから、負けたということは明らかに審判が下されたとみていいわけです。安倍さんは悔し紛れに「憲法問題は争点にならなかった」と言っていましたが、そんなことはありません。野党だってちゃんと改憲反対をしっかりとキャンペーンしていました。その結果あのような結果が出てきたわけです。こういう結果について今回の選挙の場合は明文改憲阻止、安倍改憲路線が国民によって拒否されたというような報道が多くのマスコミによってなされました。

2、今回の参議院選挙の意味 
このようにして参議院選挙で明文改憲が阻止されたということは、何も今回の参議院選挙が始めてではない。1956年に行われた選挙も、実は同じように当時沸き起こってきていた明文改憲の動きが国民によって拒否されました。当時、鳩山一郎首相率いる自民党は、改憲のために、衆議院に小選挙区制を導入しようとしました。それと同時に行われた参議院選で三分の二を確保して衆議院、参議院両方で3分の2を取って憲法を変える動きをつくろうとしたのです。結局衆議院では小選挙区法案は挫折、廃案になる。他方この56年の参議院選挙では自民党は3分の2が取れないという結果になります。3分の2が取れなかったという結果について、この当時のマスコミは「これで明文改憲は阻止された」というキャンペーンを張ったのです。それに比べて今回07年の選挙は、明確に明文改憲をするといってきたにもかかわらず3分の2はおろか、過半数も取れなかった。このことを知っていたマスコミ関係者がいたのではないか。だから、56年を上回るような「明文改憲阻止」の報道をしたのだと思います。そういう報道をマスコミにさせることができれば、私たち国民の意識の中にも、世論の中にも、「あの時の選挙はこうだった」という記憶が残っていくわけです。56年の参議院選挙も私たちにとって記憶として残っていました。この56年の選挙で当時の明文改憲の動きが阻止された、そしてその後、自民党は明文改憲の路線から、憲法の読み方を変える「解釈改憲」の路線に変更していく方策をとるわけです。そのような路線転換をさせた56年の状況というのは、今でも私たち憲法を守る運動を進めている人々には、ある種語り草になっています。ですから、2007年の選挙を、私たちの9条の会の運動が語り草にしていく、運動の中で2007年の時はこうだったと、ずぅーっと強調し続けていけば、後々の運動の担い手にも今回の選挙の意義が定着していく、このようにして選挙と運動とマスコミのよい関係をつくりだしていく運動をこれからも考えていく必要があると思います。そういうきっかけを、今回の選挙が私たちにもたらしてくれたのだと位置づけていくことができるのではないかと思います。

 

二、改憲問題の基本論点

1、自民党新憲法草案と民主党憲法提言
 福田さんになって、安倍さんのような露骨な明文改憲の動きは少し後ろに引っ込んでいます。堂々と表には出てきてはいない。しかし、そういう時だからこそ、もともと自民党はどんなことを考えて憲法を変えようとしているのか、2005年につくられた自民党の改憲案というのはどんな大変な意味を持っているのかということを、じっくり腰を落ち着けて学んでみる、知っておくということが必要だと思います。そこで、自民党の改憲案に着目をしてみました。そして、これと競うかのように、同じ時期に民主党は「憲法提言」をつくっています。もっとも、今回の選挙では、それを前面に押し出すと勝つことはできないということで、強調しなかったようですが…。民主党は、自民・公明の与党がすすめるインド洋への自衛隊の派遣については反対のポーズをとっていますが、もともとの地金は改憲の意向を持っているのです。これが、私たちの運動が弱まった時に復活するかも知れないという危機感を持って民主党の動きをみていく必要があると思います。
 自民党は改憲案の中で、今の自衛隊に変えて「軍」を正式の憲法上の存在にしようとしています。「我が国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するために内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を持つ」としています。この自衛軍なるものは、ここには「平和と独立」と書かれていますが、国際社会の常識的な理解としては自衛といえば、自分の国を守る(個別的自衛)と、自分の国の仲間を守る(集団的自衛)の両方が含まれるというのが常識です。ですからこのような理解からすれば自衛軍を持ったら最後、個別的自衛権だけでなく、アメリカと同盟を組んで国際的に軍事活動をやる集団的自衛権をこれからは堂々と行使するということが折り込み済みだと解釈されるべき条文です。そして念を押すかのように、次の条文で「自衛隊は海外にどんどん出て行くよ」ということを強調しているのです。「自衛軍は第1項の任務のほか、法律の定めるところにより国際社会の平和と安全を確保するために自主的に協調して行われる活動を行うことができる。」
「これも新しい自衛軍の任務だ」と言っているのです。一見すると、国際社会の平和と安全のための活動なのだから、国連が行う平和活動に日本が協力するというように読めます。もしそうであるならば、「国連の活動」とはっきり書けばいい。国連が全体としてルール違反を犯した国を懲らしめる活動なら「国連」と書けばいい。「国際社会の平和と安全を確保するための活動」とあいまいに書く以上は何か魂胆がある。狙いがある。眉に唾して読む必要がある。残念なことに法律の条文というのは、これを書いた人間は何を考えているのかを意地悪な頭で考えないと中身が理解できないのです。普段のおだやかな気持ちのままに暮らしていけるなら、こんな幸せな人生はないと思うのですが、法律家は法律の条文を読む時いつも、ここには何が書いてあるのかと眉に唾をして読む。そうして読むと思いつくのは、アメリカはイラクを攻撃する時、何と言ったか。「イラクはならず者だ。大量破壊兵器を持っている。それを叩くのは国際社会の平和と安全のために必要だ」と強調した。国連の安保理のお墨付きを得ようとしたけれども、国連安保理は「もっと査察を続けろ!」と主張してアメリカの要求に応じない。そこで結局イギリスを抱き込んで勝手に武力攻撃をした。これも「国際社会の平和と安全のためだ」といったのです。当時の小泉首相は、そのアメリカにすぐに応じて協力しました。こうした協力の仕方が、この条文のこの文章に当てはまってしまう。これからはもっと自衛軍がアメリカといっしょに海外に出て行って踏み込めるような中身になっているというのが、ここに書かれていることです。
 では民主党の方はどうかというと、民主党は憲法提言で、新しい憲法では「国連憲章上の制約された自衛権」の明確化をすると言っています。「国連憲章上の制約された自衛権」というこの民主党の提言の言葉、なかなか「くせ者」なのです。この言葉を聞くと、「民主党は自民党ほど好戦的でないのだなと、そんなに戦争をバンバンやろうとせずに、制約された控えめな」考えでいるのだなと読める。しかし決してそうではありません。「国連憲章上の制約された自衛権」とは、一体何か。国連憲章は、第二次世界大戦ののちに「これからは戦争はやめましょう。どこの国も武力攻撃を行うことはやめましょう。武力による威嚇もやめましょう」というルールを決めました。そして、「ただし、このルールを犯してしまった国がでた時には、国連全体でその国のルール違反をやめさせていきましょう。懲らしめていきましょう」ということも国際社会の約束としてきたのです。この制裁、懲らしめをするためには、武力紛争が起こっていた時に、どちらの国が先に手を出したのかを国連として決めなくてはいけない。そしてその国に対して経済制裁をかけるか、あるいは武力でその国の戦闘行動をやめさせる決定を下すというのが、国連憲章の平和の守り方の仕組みなのです。ところがその侵略の認定と、どういう対処で臨むかという決定までに戦闘が起こって、一週間とか2週間とか仮に経ったとしますと、その間に攻撃された側は、何も手出しできないというのではあまりにも酷であるということで、国連が集団的措置を決めて、それを発動するまでの間に限って、加盟国に「自分の国を守る個別的自衛と、他の国にいっしょに守ってもらう集団的自衛権を時間限定で認めましょう」というのが国連憲章の内容なのです。だから、国連憲章に書かれた「制約された自衛権」というのは、自分の国を守る個別的自衛権とよその国にいっしょに守ってもらう集団的自衛権の両方が含まれているわけです。そうすると、新しい憲法では「国連憲章上の制約された自衛権」を書きますよという民主党の憲法提言の言い方は、要するに、「今の憲法をもし変えるとするなら集団的自衛権を使えるようにしますよ」ということに他ならないのです。自民党は今の憲法の下でも集団的自衛権をなし崩しにどんどん使えるようにした上で、新しい憲法で集団的自衛権をもっと自由に使えるようにしようと言う。民主党では今の憲法ではそれはできない、新しい憲法では自分たちも集団的自衛権が自民党と同じように使えますよと言っているのです。将来的には集団的自衛権を使えるという点ではほぼ同じ路線をとっているということになります。そこのところはしっかり押さえておいた上で、民主党に対しては、国民の声が強くて、とても改憲派の地金は出せないという状況をつくって行くことが大切です。

2、憲法9条が変えられたらどうなるか

  さて、憲法が変えられてしまった場合、どんな社会状況がやって来るのかということを、私たちはそれなりに思い描いて反対の運動の気持ちを固める必要があると思います。もし憲法9条が変えられてしまったら、私たちの命や暮らしにどういう悪影響が及ぶのか、憲法9条を守っていくことができれば、私たちの命や暮らしにとってどういう利益になるのか、そのあたりのことをしっかりと掴んでおくことが必要だと思います。憲法9条というのは案外私たちの暮らし、命に直結するのです。非常に強い保障を私たちにもたらしているのです。もしそれがなくなると、いきなり国民の暮らしに悪影響がでる、そういう関係なのです。
 1)土地収用 軍事目的の収用も可能に(13条・29条)
 まず第一に、今の憲法9条の下では軍事目的の土地の取り上げはできないしくみになっています。戦前はこれがされていました。土地収用法という法律があって、「これからはこの土地は軍の駐屯地になる。おまえのこの土地を差し出せ」ということで、有無を言わさず取り上げられて、別の土地を用意されるかあるいはお金で買い上げられてしまう。そういうことがされていたのです。ところが、今の日本国憲法の下では軍事目的の土地収用は許されない、してはならないということになっています。でもここで皆さんは思うでしょう。「ではなぜ沖縄の反戦地主の人たちはあんなひどいことになっているの?」と。
米軍だけは特別扱いなのです。自衛隊のための土地は強制収用されませんが、米軍のための土地は強制借り上げ、日本が強制的に借り上げて10年分の地代を支払う、10年経ったら次の10年分を更新するというやり方でくり返されているのが、今の嘉手納基地など沖縄の米軍基地です。しかし、そのようなことは、日本の自衛隊については許されないことになっています。茨城県に百里基地という自衛隊の基地があります。この基地は滑走路にまで飛行機を運んでいく誘導路がヘの字に曲がっています。ヘの字の曲がったところには民間の土地があって、平和神社と言う神社も建てて「この土地は絶対に売らない」と頑張っているのです。自衛隊の土地についてはそれが許されるのです。ところがもし憲法が変えられて自衛軍が正式な存在になってしまいますと、さっさと土地収用がかけられて取り上げられるということになります。
 2)軍法会議の復活 軍事裁判所の設置 (76条)
 2番目に軍が正式の存在になった場合は戦前の軍法会議、自民党の草案では軍事裁判所となっていますが、これが復活をします。戦前2・26事件の反乱将校を裁いたことで有名ですが、このように軍の規律に違反した人たちを裁くのが任務ですが、しかし軍人だけを裁く裁判所かと言うとそうではありません。軍の法律というのは軍人だけを規律しているわけではなく、軍事動員、民間人やあるいは兵士以外の一般の公務員に対しても、軍事に際して動員をかけるのも軍法です。軍法に違反した民間人は軍事裁判所で裁かれることになります。そして、この裁判所は、普通の裁判所と違いまして、軍のことについてよく理解をしている、軍に対してお目こぼしをしてあげる、大目に見てあげる、こういう訓練を積んだ人が裁判官になっていくことが予想されます。この裁判所では、民間人、例えば建設労働者が軍需動員を拒否した、あるいは医療関係者が拒否したという場合も、軍に理解のある裁判官が判決を下して厳しく罰せられるという恐ろしいことが予想されます。
 3)首相の靖国参拝も合憲に 
        「社会的儀礼は政教分離違反に当たらず」(20条)
 自民党の改憲案では、国は社会的儀礼の範囲内であるならば、宗教に関与しても憲法違反ではない、政教分離の原則にその程度のことなら問題ないのだと言っています。小泉首相の靖国参拝について、裁判所では合憲・違憲の判断が分かれていますが、そのような問題が生じないようにしようというのが自民党の改憲案が狙っていることです。これとの関係で紹介しておきますと、今日はたまたま会場で「赤紙」をいただきました。この赤紙の下には、津市三重町関口清一さん複製と書かれています。実はこの関口清一さんという人は、政治と宗教の分離の問題で重要な裁判の原告になった人なのです。この人は市会議員をされていて、市の体育館が建設される時に地鎮祭をやったのですが、自治体のお金で宗教的な行事をやるのはおかしい、そして議員ですから、それにむりやり参加させられるは納得できないということで、この地鎮祭に使ったお金を市に返せという裁判を起こしたのです。この裁判は、名古屋高裁では、関口さんの主張はもっともだ、これは宗教的な儀式に当たり、公費で行ってはならない、という判決が下されたのです。しかし、最高裁に行ったら地鎮祭程度なら宗教的な意味も薄い、この程度のことに自治体が金を出してやるのは社会的儀礼の範囲内であるという言い方で、訴えを退けてしまいました。でも地鎮祭と首相の靖国参拝では政治的な意味は全く違います。なぜ首相が靖国参拝をするかというと、これは国に殉ずる、命を捧げる人間を祀る神社に国も配慮しますよというメッセージを出している。国のために兵隊として命を捧げた人間を讚えるそういう行為をするわけですから、本来やってはならない政治と宗教のかかわりという点ではより重いわけです。しかし、それも含めて社会的儀礼の範囲内なのだということで、自民党改憲案は靖国参拝を憲法違反ではないことにしてしまおうというのです。

 4)徴兵制は?

 自民党の改憲案は、徴兵制の問題についてはあまりはっきりとは書いていません。正式な軍になるのですから、やろうと思えばできることになるのだろうと思います。ただし、これから日本がかかわっていくであろう戦争、アメリカといっしょにやるであろう戦争の場合は、果たしてかつての徴兵制のように、若者を有無を言わさず、赤紙一枚でいついつどこまでに出頭せよと動員するような形で徴兵制度が敷かれるかどうか、普段軍事訓練をやっていない人間をがさっと大量に兵隊に仕立て上げるような戦争になるかというと、どうもそうはならないのではないかと思うのです。というのも、アメリカが今イラクやアフガニスタンでやっている戦争からもわかりますように、無人の飛行機、無人の戦車といった形で味方の兵士はなるべく少ない犠牲で、しかし相手の兵士や民間人に対しては多大な犠牲を出している、そして勝利する。そんな戦争を今アメリカは現にやっているし、これからも大々的に進めようとしている。こういう戦争では兵隊はそんなにたくさんはいりません。長い訓練が必要ですし、高度な兵器を操る技術も必要となります。徴兵制ではそういう兵士の確保はできません。だから兵隊にとられる可能性はあまり多くないのです。でもだからと言って私たちは安心してはいけない。これからの戦争はそういう高度な科学兵器で人殺しをしながら、戦争のための物資は大量に必要ですからそれを運んでやったり、あるいはつくってやる、あるいは港や空港で荷のあげおろしをやってやる、あるいは傷ついた兵士を救護する医療活動などの後方支援、戦前の言葉で言えば兵站支援が、今よりもっともっと要求されてくる。ですから戦前の言葉でいうと徴兵ではなく「徴用」こそが、これからはもっと重要になる。普段の生活がそのまま戦争に使われる、戦争に動員される。そういう活動こそが、私たちにとって脅威だと思います。徴兵制を念頭に置くと、若い人に向かって「あなたたち憲法が変えられたら大変ですよ。あなたたち若い人たちが真っ先に取られるのだから」という話になりがちですが、これからはそうではない。若い人は技術が未熟です。それに比べて、運輸・土木・医療の熟練者はより役に立つわけです。むしろベテランこそが、40歳、50歳の働き盛りの人だって徴用される危険性が多いわけです。徴兵・徴用に関しては老いも若きも、誰にとっても大変なことが起こるのだというように語りかけていく必要があると思います。

3、日本国憲法10章「最高法規」をよく読む

 こういうような動きに対して、私たちが改憲反対の運動を進めて行く上で、憲法がかかげている第10章「最高法規」の章をよく読む必要があります。3つの条文からなっていて、2番目にあるのが98条です。「この憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令(省略)はその効力を有しない」。憲法は国の最高法規だ、これに反する法律以下の法令は全て無効だという、これは憲法が最高法規であることからすれば当然のことです。この憲法に違反する法律をつくってはいけない。政治をやってはいけないということがこの98条には書かれています。そして97条と99条の両方によって憲法の最高法規性を実現するようにしています。99条は「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」となっています。「公務員のみなさん、あなたがたはこの憲法を守る義務があるのです」ということです。「憲法を守って政治・行政・司法をやりなさい」ということが書かれています。ですから、憲法というのはこのように権力を担当する人たちへの命令なのです。彼らが勝手に権力を行使しないように、公務員に対する縛りとしてこの憲法はつくられているということを99条は示しています。だから99条では国民はいっしょに扱われていないのです。「国民の憲法を守る義務がないのはおかしいじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、憲法というのはもともとそういうものではないのです。国民の権利がしっかり守られるように、公務員がこれを守らなければならないもの、公務員に向けてつくられたものなのです。
 では、私たち国民は憲法が守られることと無関係なのか。安心してください。それはちゃんと書いてあります。それが憲法97条なのです。97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対して侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」としています。日本国憲法が国民に保障している基本的人権とはこういうものだ、という性格づけをしています。この性格づけのなかに実は私たちと憲法とのかかわり方が、私たちと憲法とのつながり方が書き込まれています。私はこの条文の3つの点に着目したいと思っています。
 1)「努力の成果」
 人類が基本的人権、全ての人が自由、平等に生きる権利を持っているという「人権」の観念を持つに至ったのは、日本では日本国憲法になってから、ヨーロッパでもたかだか200年、300年です。それまで人々はどのような暮らしをしてきたかというと、身分制です。日本では江戸時代の「士農工商」という身分制度、ヨーロッパでも国王や貴族などがのさばっていて、農民や町人を押さえつけていた、そういう時代です。ではその時代に人々は憲法と全く無関係な暮らしをしていたか。私は決してそうではない、そういう時代にあっても人として人間としての思いは共通であって、どんなにつましい中でも、普通の暮らしがしたい、あるいは自分の気持ちに正直に生きたい、そういう心を持つ人々はたくさんいて、どうやったらそれが実現できるかという方法は見いだされなかったけれども、その願いはずっと持ち続けて人間は生きてきたと思うのです。例えば、藤沢秀平さんの小説があります。あの小説の中で江戸時代に下級武士やあるいは町人、農民が悪代官に虐げられたりするさまが描かれていますが、人間の原点はつましくても真面目な生き方にあるんだということを小説は語っています。そういった人々の過去の努力の成果の上に私たちは今の暮らしや人権があると見てよい。そういう人々の努力の上に、ようやく私たちは200年300年を経て、今の基本的人権に辿り着いたのだと見ることができると思います。
 2)試練に耐え
 しかし、そのようにして憲法で勝ち取った基本的人権というのは、憲法にそれが書き込まれたことで全てが終わるのかというと、決してそうではない。今度は憲法に書かれているそれを守るために、私たちは新しい取り組みをしなければならない。そういう意味で憲法に書かれた基本的人権は、今度は試練にさらされるわけです。最近でも、えん罪事件があって、裁判所で無罪の判決が出たという報道を見聞きすることがあります。鹿児島で公職選挙法違反でたくさんの人がでっち上げられ、家族の写真を踏み絵までさせられたとか、やってないと言っているのにひどい取り調べを受けて、「やってしまった」と自供してしまい、あとからその証言を覆した、そして無罪になったとか、もっとひどいのはビラ撒きで本来罪に問われない行為を、住居侵入だとか言って逮捕する。ひどい事件になると「ちょっと署まで来てくれ、聞きたいから」と言って、任意で同行したつもりが逮捕されたということもあります。そういう時に憲法に基づいて「この逮捕はおかしい」と裁判に訴える、そしてその裁判を支援する運動を広げていく。このことを通じて初めて憲法に書かれた権利が獲得されていく。私も生まれ故郷で起こった事件ですが、ある人が、東京葛飾区でオートロックのないマンションにビラ撒きで入って住居侵入罪で起訴されました。「このぐらいで有罪になるなどというのは社会常識に反する、国民の通念に照らしてみて、そんなのは罪にできない」というので2006年の8月に東京地裁で無罪の判決が出ました。これも運動の成果だと思います。しかし、2007年の12月11日に、東京高等裁判所は逆転有罪判決を下しました。たたかいの舞台は、最高裁に移りました。このようにして不当な権利の侵害があればそれをはねのける運動を積み重ねることによって憲法に書かれている人権というものがより確かなものになっていくわけです。
 3)永久の権利
 お金とか食べ物は無くなるわけですが、権利というのはありがたいもので、使えば使うほど無くならないで増えるのです。より確かなものとして磨きがかかるのが、この権利というものの存在なのです。そのようにして磨きがかかれば今度はそれをより豊かなものとして次の世代に受け渡していくことができる。それが憲法上の権利というものだといっていい。使わないでおくと腐ってしまったり、錆びついてしまったりするわけですが、使うことによってますます光り輝くのが、憲法の権利です。私たちが国民の立場で憲法を守るというのは、このように自分たちに保障された基本的人権を使うことを通じて守ることだろうと思うのです。私たちが憲法を使えば使うほど、より確かなものとしてこの社会に定着して、そのことに支えられて初めて公務員も国民の声に応えて憲法を守ろうとする。だから公務員の憲法尊重擁護義務と私たち国民が運動を通じて憲法を守る、自分たちの人権を使うことによって憲法を守るという両方から支える形で初めて憲法98条の最高法規性というのは守られている。運動と公務員の義務が車の両輪になって憲法は守られるのだということを私は第10章にかかわって強調したいと思います。

三、憲法9条のいま

1、最近の改憲論の特徴
 最近の改憲論は、安倍さんの改憲論などが典型的ですが、明文改憲と解釈改憲を両刀遣いのように出してきているという特徴があります。しかし、もともとこれは理屈の上では筋が通らないやり方なのです。なぜ憲法を変えなければいけないかと言えば、それは「今の条文ではできないことがあるから」というのが明文改憲です。ところが「解釈を拡げればこれだけのことをできます」というのが解釈改憲。ですから解釈改憲を言うならば、明文改憲は必要がない、逆に明文改憲が必要なら解釈改憲はできない。こういう関係に理屈的にはなっている。自民党はかつては中曽根さんが明文改憲派のリーダーであるとすれば、亡くなった宮沢喜一さんには、「明文改憲のような大胆なことは必要ない。解釈を変えればできる」ということを言わせる。二人の人間に別々のことを言わせることによってバランスを保ってきたわけです。ところが最近になってもはや解釈改憲では対応できない、どう逆立ちしても憲法をどう読んでもできないというところまで、解釈の幅を拡げてしまって、もはや明文改憲しかないというところまで来てしまった。こうしたせっぱつまった状況のなかで、明文改憲がともかくも必要であり、そのためには解釈改憲の実績も必要だ、両方やっていくんだ、解釈改憲で今よりももっと明文改憲の方へ近づけていくという、理屈も何もない強引な手法が安倍内閣によってとられるようになってきました。

四、集団的自衛権をめぐって  

1、集団的自衛権とは
 政府の説明によると、「国際法上自国と密接な関係にある外国に対する武力行使を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力を持って阻止する権利」。これが日本政府の説明している定義です。大切なのは「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という部分です。自分の国は攻撃されていないけれども、仲間の国が攻撃された時にいっしょになって守ってあげる権利だというのが、政府の言う集団的自衛権です。これは要するに軍事同盟でお互いを守りあう権利といえます。しかし、軍事同盟によって平和を守る、安全を守るというやり方は、実は過去の歴史に照らしてみるなら、もはや、それでは平和は守れないということが実証されているものです。例えば、第1次世界大戦がどうして起こったか。セルビアの首都サラエボでオーストリヤの皇太子が暗殺をされる。皇太子の暗殺に怒ったオーストリアがセルビアに対して宣戦布告をする。当時オーストリアはドイツと同盟を結んでいたので、ドイツもいっしょになってセルビアを攻める。ドイツ、オーストリアは当時ヨーロッパの中では大国です。その大きな国が小さなセルビアに対して戦争をしかけたものですから、逆にセルビア側にはフランスやイギリスがついてというように、一発の銃声からヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争にまで発展してしまったのです。これが第1次世界大戦です。ですから同盟によってお互いに仲間をつくって、よそから攻められないようにしようという守り方は、敵とされた国はその同盟の力が怖くて、自分たちの仲間をつくってしまう。すると相手も身構えるということで、結局、同盟対同盟の大戦争に発展してしまうのです。第2次世界大戦も同じような形で勃発しました。

2、軍事同盟の根拠となってきた集団的自衛権
 この集団的自衛権、言葉を変えて言えば「同盟による平和」では平和は守れないということが実証されたわけです。ところがアメリカの画策などによって、戦後、国連憲章の下でも限定つきながら残ってしまいました。そのようにして残された集団的自衛権はやっぱり戦後も悪い役割を果たしていくことになりました。例えば、ベトナム戦争です。アメリカが南ベトナムに加勢をする、その時の理屈は集団的自衛権です。ソ連が東欧諸国を巻き込んでチェコの民主化運動に介入する、この時の理由も集団的自衛権。ニカラグアに民族解放戦線がつくられ、これを快く思わないアメリカは政権を転覆させる。それを裏で画策するために使った理屈も集団的自衛権です。このように過去の例を調べてみると、集団的自衛権は戦後の歴史の中で、平和にとってよい役割を果たしていないのです。むしろ逆に大国が小さな国を従える、自分の国の意に沿うような方向に持っていく、そのために軍事介入する。その時の理屈として集団的自衛権が使われてきたわけです。ですからこれは、本来平和の役には立たない、むしろ国連憲章に書かれてはいても封印すべきもの、お蔵入りさせるべきものだというのが歴史の審判だと、私は思います。でもそれを、安倍さんはアメリカといっしょになってこれから使いたいと言ってきたわけです。何のために使うか、アメリカに向かうミサイルを日本で撃ち落としてあげるためです。これは日本が攻撃されているわけではないので集団的自衛権に当たるけれども、これをできるようにするために集団的自衛権を認めてくださいと言う。あるいは日本近海の公の海で活動するアメリカ軍の船を守ってあげるために、集団的自衛権を使いたいと言っているのです。
 日本近海で活動しているアメリカ軍の船。日本海で活動しているとすれば、それは北朝鮮に対して何か画策をしている。東シナ海であるなら中国と台湾の関係に介入するための船であろう。しかし、そうしたアメリカ軍の空母などに、日本の自衛隊が、護衛あるいは防衛に向かうということは、これはむしろ火に油を注ぐことになるのではないかという懸念さえある。そういうことを、安倍さんはやっていこうとしていたのです。またイラクで活動しているイギリスやオーストラリア、アメリカも含めてですけれど、外国の軍隊を守ってあげるための活動、これも集団的自衛権でないとできないので認めてほしい。このように安倍さんが挙げてきた根拠はすべて、日本を守るために集団的自衛権が必要だということでは全くなくて、日本の自衛隊が海外でアメリカといっしょになって軍事活動をする、いまよりももっと軍事行動を積極的にやる、そのための理由として集団的自衛権がなければならないのだということを言ってきたのです。でも果たしてこういった活動によって国際社会の平和が守れるかというと、私はむしろそれは逆にほかならないと思います。イラクやアフガニスタンで民間人をあれだけ殺しながら、一向に治安が回復しないという現状、あるいはもしアメリカが日本近海で軍事活動をやるようになれば、東アジアにおいて緊張がものすごく高まっている状況ですけれども、日本が軍事介入をアメリカと一緒にしていくということになれば、これはむしろ平和にとって妨げになると思います。

3、集団的自衛権容認論がねらうもの
 今の改憲派の人たちは、アメリカから要求されてその方向を目指しているわけですが、それだけではなくて、日本国内の財界からも強い要請を受けてそれをやろうとしてきています。日本国内の改憲推進力の震源地は財界が主流にあると言っていいと思います。財界は、この間何を唱えてきたかというと、憲法9条と憲法改正の手続きを定めている96条を変えることを優先的に取り組めと政治に対して突き付けてきました。こういう要求の背景には、戦争で金儲けをしよう、あるいは海外でもっと金儲けをするために自衛隊をどんどん海外に派遣してほしいという思惑があります。2003年に経団連の前会長の奥田さんというトヨタの社長がつくった「日本経団連のビジョン」によりますと、まずこれからの日本は日本国内で物をつくって売りさばく「メイド イン ジャパン」の時代ではなく、「メイド バイ ジャパン」の時代だ。海外で現地生産をしてそれを海外市場で売る、あるいは海外でつくったものを日本で逆輸入するという形で儲けるのだと。海外の労働力の方が日本よりも圧倒的に安いので、その方が儲かるのだと考えています。トヨタはその典型で海外生産の方がむしろ上回ってしまった。しかし、こういうことをやっていくと結局国内の税金の収入はあまり上がってきません。その上、国内の税金をそのままにして海外に進出していく会社の工場と国内生産を競争させると、国内生産はもしかすると負けてしまうかも知れない、海外の労働力の方がコストが安いものですから。そこで、その競争に国内の工場が負けないようにするためには企業の法人税はまけて安くしてくれということを言い出しているのです。そして、その分の埋め合わせは消費税増税でやってくれと。ですからこの前の参議院選挙でもし自民党が勝ってしまっていたら、今ごろは消費税増税をどうするかという話が自民・民主のところで堂々とやられるという危険な状況が生まれていたはずです。あのような結果になったので、とてもそんなことを言っている場合じゃないということで話題に出せないでいます。けれど、本音としては法人税減税、消費税増税をセットやっていこうというのが、財界からの強い要請を受けた自民党の方針なのです。そしてそのような形で税金はあまり取れないということになりますと、少ない税金でより効率的に配分するのだということでこれからは教育に広く薄くお金をかけるのではなく、伸びるところにだけ重点的にお金をやるといことを考えて、教育改革あるいは大学改革などをやろうとしています。今地方の国立大学は非常に財政的にピンチになっています。これも結局技術開発に役に立つところにだけお金をつぎ込むことを考えているせいです。
 さらにもっと虫のいいことに、財界はこの間、例の防衛汚職によって明るみ出てきていますが、防衛産業、防衛生産でお金儲けをしようとしています。アメリカとの間のミサイル開発をするために武器輸出禁止の原則を緩めてくれと、財界は政府に対して要求を出しています。一部はかなり認められてしまっています。アメリカは年がら年中戦争をやっている国ですので、日本の武器輸出禁止の原則「紛争当事国との武器取引はしない」に触れてしまうのですが、それを守っているとアメリカの企業の一人勝ちになって、日本の会社が軍需生産にありつけない。それは嫌だということで、武器輸出禁止の原則を緩めてくれと言うのです。武器輸出は今回の事件で明らかになったように、もともと開発費にかなりお金がかかるものですが、絶対に赤字のでない値段で請求をする、請求した額にまた、水増し請求をして上乗せしますから、企業にとってはぬれ手で粟のような仕事なのです。ところが国民にとっては、大切な税金が兵器という人殺しにしか役立たない無駄なもの使われてしまっている。そして私たちの地域や国民の暮らしに役に立つような循環には帰ってこない。そういう反国民的な経済であると言っていいと思います。
そして、財界は、このような金儲けのやり方を推し進めていく政策を実現してくれる政党なら献金しますよ、といい出しています。今までは自民党やその政治家がお得意さんでしたが、これからは、私たちが求めている政策を実現してくれるところならどこへでもやりますよと。政治献金の成果主義みたいなものです。この間、賃金での成果主義が流行っていますけれども、政治献金でも成果主義を導入して、強力に政府に対してプレッシャーをかけています。それが日本国内における改憲路線の大きな震源地であると言っていいと思います。
でもこういう動きに私たちのこれからの将来を託すのとすれば、とんでもないことになってしまうのだろうと私は思うのです。こういう大企業を軍事による金儲け、国内の暮らしを省みない海外生産による儲けのやり方というのは、私たちの暮らしにとってマイナスになると同時に、海外に暮らす人々の暮らしにとってもマイナスになります。そしてまた日本と海外の人たちの平和的な関係も壊していくという、いろんな意味で悪い影響を生むやり方です。もし、このようなやり方を改めさせて変えていけば、私たちの暮らしもよくなりますし、海外の人たちの暮らしもよくなります。そういう逆のいい循環をつくりだすことができます。日本とアメリカがミサイル防衛開発を進めてしまいますと、諸外国も不安になって、軍拡に走ります。そうなりますと、例えば中国などで国民が一生懸命に稼いだお金が全部軍事費に使われてしまいますと、ずぅーっと中国の人々は低賃金で苦しまざるを得ない。中国の人たちがいつまでたっても安い賃金で働くということは、日本の大企業はこれさいわいにそちらの方にどんどん進出して、そちらで儲けようとします。私たちの地域の経済や暮らしをもり立てていくような状況をつくり出すには、できるかぎり諸外国、とりわけアジアの人々と私たちの賃金水準の格差を縮めて行くことが大切です。格差を縮めていけば、無理な海外進出をしなくなる。企業も戻ってくる。そうすれば海外の人たちも幸せな暮らしができますし、日本の地域経済の建て直しにもなりますし、うまい循環が戻ってくるわけです。こういうよい循環をつくり出す大元には、実は憲法九条があるわけです。憲法九条を守って、日本とアメリカが進めようとしているミサイル防衛開発とか、日米軍事同盟の下での米軍再編の推進をやめさせていく。その一歩が、今回インド洋に派遣された自衛隊を戻した、これがまず最初の第一歩になっていると思います。そういったことを積み重ねて行ければ諸外国の軍備拡大、軍事費増大の方向に歯止めをかけることができる。その結果、諸外国の人々の暮らしをよくすると同時に私たちの暮らしを、大企業のむちゃな海外進出を許さない形をとることによってよくなっていく。そういう、いい循環が生まれてくることになるのだろうと思うのです。そのまさに重要な鍵、新しい日本を私たちが切り開いていく上での大切な扉、最初の扉は憲法九条にあるのだということを強調したいと思います。