9条は日本の誇り、世界の宝…

今こそ憲法を考えよう

 

            講師 伊藤真さん

                   2007年6月6日 ねりま文化センターにて                           

はじめに

 みなさんこんばんは。今、日本中で憲法の話をさせていただいています。多くのみなさんに憲法の、特に9条の思いが届くように、そんな思いでやらせていただいています。普段は、将来弁護士や裁判官として仕事をしたいと考えている学生や社会人のみなさん達に、憲法を初めとした法律の講義をしています。伊藤塾というところでやっております。
 さきほど日本の青空のご案内がありました。ほんとうに素晴らしい映画です。ぜひご覧になっていただければなあと思います。私たちの憲法はこんなふうにできたのだということが分かります。 特に女性の方にはぜひご覧になっていただきたいと思っています。伊藤塾でちょっとだけこの映画に協力をさせていただいています。それから「日本国憲法—歴史に学び未来を語るー」ということで、もう一つ映画があります。「戦争しない国日本」というドキュメンタリー映画です。これにも協力をさせていただいております。将来法律家になりたいという人間に法律の講義をしているわけですが、私は法律家というのは憲法の価値を実現する者、それが仕事だと考えているものですから、そんなことをやっております。

人間は戦争をしてはならない

 2週間ほど前、朝まで生テレビという番組に出演の依頼があって出てみました。あれは政治ショーみたいなところがあって、冷静に憲法の話ができるようなところではないのですが、それでも非常に勉強になりました。与党側の政治家の考え方、感覚というのが、即実感できたのです。それは、軍隊とか自衛隊とかいうようなもの、特に軍隊に対する怖さ、恐ろしさ、危険性を全く感じておられないなということです。軍隊というものは自由に自分たちでコントロールできると思っていて、怖いもの、気をつけなければいけないものだという感覚がほとんどないということがわかりました。私などは、武器を持った集団がそこにいて、しかもアメリカ軍と一緒に軍事訓練をしている、人殺しの訓練をしているのは、それだけで恐怖を感じるのですけれど、そういう感じ方が全くないのだということがよくわかりました。私の向かいに軍事評論家の潮匡人さんがおられました。元自衛官の方ですが、最近「憲法9条は諸悪の根源」という本を出されました。PHPという出版社から出されたものです。PHPというのはPeace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)の略ですが、そんな会社からこのような本が出ているのです。後ろの方にはこんなことが書いてあります。「戦争がなくならないのは、人間が正義を求め、不正を憎むからである。よりよく生きようと努め、悪に立ち向かうからである。その意味では戦争こそ人間的な行為である。その根本を否定する平和憲法から倫理道徳が生まれないのは当然なことである。憲法9条は戦後日本人の人間性を奪った諸悪の根源である。」そして「軍事力は人間にとって最後の力であり、最後の理性である。これを行使するのは国家が行う倫理的な行為である。名実ともに自衛隊を軍隊にすべきである。戦後レジュームから脱却するとはそういうことである。」と書いています。こういう本がどうどうと出版され、こういう方がテレビでコメントされる。日本は自由な国だなと思いますね
 私は特定の政治団体や宗教にかかわっているわけではありません。しかし、私には一点だけ譲れないことがあります。それは人間は戦争をしてはならないということです。戦争はよくないものだということです。この一点だけはどうしても譲れません。最近は「正義のための戦い。民主化のための戦いだ。そういう正しい戦争もある」という考え方が若い方を中心に出てきたりしています。もっとはっきりと「戦争ほど儲かるビジネスはないぞ」と思われている方もいらっしゃる。でも私は戦争をしてはいけない。人間は戦争をしてはいけないんだということをきちっと理解することが理性だし知性だとそう思っています。
 9.11という悲しいテロの事件がアメリカでありまして日本人の方も多く命を亡くされました。その中に、西日本銀行にお勤めだった中村タクヤさんという30歳の方がいました。一年ほど前にニューヨークに赴任したばかりで、数カ月前にご結婚されたばかりの、まさにこれからという方です。彼のオフィスは120階にありましたから直撃を受けてしまったわけです。そのタクヤさんのお父様が新聞の取材に答えておられる記事がいくつか目に留まりました。アメリカはあのテロの後1ヶ月あまりでアフガニスタンに空爆を開始したわけです。その時に、その中村タクヤさんのお父様である中村タスクさんがこんなことを話されています。「あだ討ちができてよかったねと知人に言われたけれど、報復は暴力の連鎖を生むだけだ。せがれは事件に巻き込まれたが、さらに関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本はアメリカの腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消などの他の手だてを考えるべきだ。」こうおっしゃっていました。私はこれを読んだ時ほんとうに驚きました。まだテロから1ヶ月ぐらい、ある意味では、本当に憎しみや怒りに駆られている最中です。そういうときにこういう発言をされるわけです。この発言をしたのは私みたいに偉そうに口先だけで仕事をしている人間ではないのです。平和主義の文化人のコメントではないのです。まさにご自身の大切な息子さんを亡くされたそのお父様なのです。別のところではこんなこともおっしゃっています。「子どもを奪われることの辛さ、つまり命の重さというものが息子を失ってからより真剣に考えるようになりました。テロリストも国家も正義を語る。しかし関係のない人の命を犠牲にするところに正義などありえない。せがれに私がいるように、どの人にも家族や恋人がいるわけです。そこに思いを抱かずして正義など決して実現できないと思います。私はこちらが真実だと思います。人間は正義のために闘うんだ、だから戦争は最も人間らしい行為であるという人が一方でいる。その一方で、正義のためなどという名目で人の命を犠牲にすることは絶対に許されないという犠牲者のお父様がいらっしゃる。私はこちらに真実があると思っているし、その思いで私たちの憲法9条というものがあるわけです。
 「テロを無くすための特効薬など誰も思いつかないと思うし、妙案も多分ないでしょう。でもないからこそやれることというのは、青くさすぎると言われるかも知れないけれど、人を愛することとか、人の命を尊ぶこととか、それらを一生懸命訴えていかなければ、隣人を愛する、誰の命も大事にする、そこから始めなければ解決はしない。遠回りでもそこから始めるべきだという気がします。というのがお父様の言葉なのです。
 まさに私たちの憲法はそこに原点があります。私たちの憲法9条の根っこには、誰の命をも大切にする、かけがえのない一人ひとりの命を大切にする、その命に対する畏敬の念、命に対する敬い、大切にしたいという思い、そして私は愛の気持ちが根底にあると思っています。

戦争をする国から、戦争をしない国へ

 「戦争をしない国日本」という映画はドキュメンタリー映画です。1930年代から後の日本はどんなだったのか、そして戦後日本はどんな道を歩んできたのかという歴史をドキュメンタリーで見せている、そんな映画なのです。私はその映画を観るたびに思うことがあるのです。「こんな日本じゃなかった。今みたいな日本じゃなかった」といつも思うのです。二つの意味で。一つはこんな平和な国じゃなかったぞ。もう一つは、こんなに憲法をないがしろにしてきた日本じゃなかったぞということの二つなのです。日本はこの憲法を60年前に施行される。その前まではずーっと戦争をし続けてきた国でした。先の戦争で310万人ともいわれる日本人の命を失い、2千万を超えるアジアのみなさんたちの加害者となった。被害者にもなり、加害者にもなった。その犠牲の上にこの9条ができ上がったのだと学生達に言います。そうしたらある学生が終わってから「先生それ違うと思う」と言うのです。「さっき塾長は被害者にもなり、加害者にもなりと言ったけど、それ違うと思う。被害者にもなり、加害者にもなりじゃなくて、加害者が先でしょう」と言ってきたのです。本当にその通りなのです。確かに1945年に東京大空襲ですとか、沖縄戦とか、原子力爆弾を落とされて、その年だけでも大変な被害を受けました。確かに大きな被害を受けました。しかし、その前に加害の歴史があるじゃないですか。明治政府ができてすぐの1874年から台湾出兵があり、日清戦争だ、日露戦争だ、第1次世界大戦だ、そして中国大陸へ、71年もの間この国はアジアに侵略をし続けてきたのです。71年間軍事侵攻を続けて、加害者をずーっとやって来て、最後の方で被害者になったのです。日本は71年間戦争をし続けてきた国だったわけです。前の憲法の元で。
 それを60年前に新しい9条を持つ憲法に変えたというわけです。戦争をし続けてきた日本から、戦争をしない国日本に180度変えたわけです。昔は戦争をし続ける国であるために、いろいろなことが必要でした。例えば「国のために死んでいくことが大切なんだ」「国のために死んでいくことは素晴らしい」という教育をしなければなりません。また、戦争で人の命が奪われると、ご遺族の方はまことに辛い、悲しい思いをします。戦争は戦死という悲しい出来事を伴いますが、その出来事を「悲しくなんかない、それは栄光なんだ。素晴らしい名誉ある行為なんだ。英雄になるんですよ。素晴らしいじゃないですか」と言って、悲しい戦死を素晴らしい、美しいことだと180度意味を変える、そういう仕組みが必要でした。それが靖国神社の仕組みなのです。そうやって宗教を政治家が利用してきました。教育を利用し、宗教を利用し、そうやって戦争をし続ける国を維持し続けてきたのです。そしてなによりも「国家のために国民は尽くすんですよ」という価値観が根本にありました。
 60年前、この憲法ができた時に、戦争をし続けた国から戦争をしない国にひっくり返して変える時に、一緒にそれらを断ちきりました。政治と宗教はきちっと分ける。「教育に国が関与することはやめよう。そして何よりも一人ひとりの国民の幸せが大切なんだ。そのために国があるんだ。決して国家のために個人があるんじゃない、一人ひとりの個人のために国家はあるんですよ」と、国家と個人の関係を逆転させたわけです。それが60年前に施行された私たちの憲法なのです。60年前に大きく変えたそれが「戦後レジーム」なんです。
 戦争をしない国が戦後体制であり、戦後レジームなのですけれど、そこから脱却しなければならない。それは気に入らないと言う人たちがいるのです。まさに気に入らない人が首相をやっているわけですが。また昔のように普通に戦争のできる国に戻さなくては。宗教ともうまくやって、靖国神社にも普通に公式参拝できるような国にしなければ。そして教育の中身にも国がきちっと入っていって愛国心を教えることができる国にしなければダメじゃないかという考えの人が一歩一歩、歩を進めているわけです。こうして昨年末に教育基本法が変わりました。旧教育基本法の前文は、「憲法を実現するには教育の力に待つ」とはっきり言っています。それが新教育基本法の冒頭では、「我々日本国民はたゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるともに、世界の人類と福祉に貢献することを願うものである。」と変わりました。「国家を更に発展させる」、それが教育基本法の冒頭に出てくるわけです。国を発展させることがまず第一番に出てくるのです。従来の教育基本法の第一条、教育の目的は『教育は、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」でした。新教育基本法では、教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な国民の育成を期して行わなければならない」というもので、「自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民」などというものは全部削除されています。国を支えるのにふさわしい、そういう国民になれと言っているのです。それが教育の目的に変わったのです。今までは一人ひとりの個人の価値を尊び、自主的な精神に満ちた子になるんだぞというのが教育の目的だったのが、これからは国を支えるにふさわしい国民になるんだぞと、それが教育の目的になりました。目的が変わったのですから、目標以下が変わってくるのは当たり前です。国を支えるにふさわしい国民になれというのだから、「国を愛する態度」が当然出てきます。それから教育の中身に法律で介入できるようになってくるわけです。

新憲法草案を念頭においた自民党の改憲論

 教育基本法を変えました。それは当然憲法を変える布石になっています。戦争をしない国が戦争をできる普通の国になりましょう。というので「新憲法草案」が出てくるわけです。安倍総理は参議院選挙で改憲をテーマにすると言います。マニフェストでも最初にそれを出したりするわけです。憲法改正を選挙のテーマにするというわけです。改憲をテーマにして「賛成ですか?反対ですか?賛成の人はみんな自民党に入れてください」と言われてしまうと、私も入れなければならなくなってしまいます。憲法を変えるのに賛成ですか?反対ですか?なんてことを言われたら、私だってよりよくするなら大賛成ですよと思っています。みなさんとは考えが違うかもしれませんが、私は例えば、「天皇制」と言うのは憲法に入れることはないじゃないか、日本の文化として残していればいいだけで、何も憲法に入れなくてもいいのではないかと個人的には思っています。それから「平和的生存権」を人権の条項で書いたほうが分かりやすいのではないかと思っていたりして、より良くするためには変えたほうがいいなと思うところが実はいっぱいあります。ですから改憲をテーマにするなどと言われては困るのです。改憲の論議というのは、「こんな憲法にしたらいい」「あんな憲法にしたらいい」というサロン談義みたいなものではない。飲み屋で「こんなふうにしたほうがいいんじゃないか」なんてクダ巻いたりする。そういう話ではないのです。あくまで改憲の論議というのは、今の憲法のこの条文が不都合だから、ここをこう変えたい。それに賛成か、反対かという議論じゃないと意味がありません。さて、安倍総理がめざしている改憲、これは自民党の「新憲法草案」として一昨年でているわけです。これで行くということを彼は明確に言っています。

新憲法草案の3つの大きな問題点


・まず国があり、その下に個人がある
 前文には、国を守る義務、国を愛する義務をまず国民に課します。国防の義務、愛国の義務をまず国民に課して、その下でしかあなたには自由や権利はありませんよということを明確にします。
 12条のもそうです。公の秩序がまずあって、その下でしか国民の権利はないぞということです。そうやって、まずは国の利益を挙げ、その下に国民の権利はありますよ、国家と国民の関係では、まず国家が最初だぞという考えかたです。
・アメリカ軍といっしょに軍事行動をする国へ
 現憲法第2章には「戦争の放棄」というタイトルがついています。このタイトルを「安全保障」と変えてしまいます。9条の1項はそっくりそのまま自民党の新憲法草案に横滑りで残されます。だから自民党の議員はこんなことをおっしゃいます。「やあ、国民のみなさん安心してください。自民党の案でもちゃんと平和主義が守られています。憲法9条を残しています」と。でも、9条の一項は
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
というもので、「国際紛争を解決する手段としては」は「侵略戦争としては放棄します」という意味です。9条の2項で
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
としているから、あらゆる戦争はしませんという意味になるわけなのです。ですから、9条の1項を残したところで、侵略のための戦争以外の戦争、それこそ正義のための戦争だ、自衛のための戦争だ、民主化のための戦争だ、そして国防のための戦争だ、そういうものは全部OK!ということになってしまうのです。そもそもあらゆる戦争は自衛の名のもとに行われてきました。
 それこそ、日本のアジアに向かっての戦争も自衛のためだった。ヒトラーも最後まで国防のための戦いだと言い続けた。アメリカだって、例えばベトナム戦争だって、集団的自衛権の名のもとに自衛のための戦争をしたのでした。あらゆる戦争は自衛の名のもとで行われてしまうのだから、自衛戦争ができるといったのじゃ、これは意味がない。だから日本の憲法は9条の2項であらゆる戦争を放棄すると、どんな名目の戦争も、それは正しい名目の戦争なんて存在しないというのが9条の2項なのです。そのために戦力は持たないし、交戦権、国が戦争をする権利は認めないぞと言ったわけです。9条は2項が本質なのです。それをばっさり削る。削除してしまうのです。9条の2項に「陸海空その他の戦力はこれを保持しない」と書いてあります。そんなこと言ったって自衛隊はあるじゃないか。皆さんの中には自衛隊は憲法違反だと考えられる方もおられるでしょうし、いや自衛隊は必要じゃないか、自衛隊は憲法違反ではないと考えられる方、いろいろいらっしゃると思うのです。それはいろいろな考えがあっていいのだろうと思います。憲法9条は、戦力は持たないとしていますが、自衛隊という組織は戦力に当たるから憲法に違反しているんじゃないかという考え方、そして政府や自民党は、「自衛隊は戦力ではありませんあれは自衛のための必要最小限度の実力組織です」という説明をします。だから自衛隊は憲法違反ではありませんというわけです。
 仮に政府自民党の「今の自衛隊は自衛のための必要最小限度の実力組織であって戦力ではない」という考え方を取ったとします。とすると、まさに自衛のための必要最小限度の実力は今あるわけだし、この国を守るために必要な最小限度の力は今の憲法で持てるのだから、何ら不都合はないわけです。9条の2項を削除しなければいけないのは、今の憲法は戦力によらない必要な最小限度の実力は持てるけれども、それを超えちゃダメだと、超えたら憲法9条に違反してしまうわけです。だからこの2項を削除しようというのです。国を守るための必要な最小限度の実力では足りないからですね。それ以上のことをさせたい。自衛のための必要最小限度のこと以上のことをさせたいから9条2項を削除しなければならないのです。
 それは何なのか、アメリカ軍と一緒に軍事行動を取れるようにということです。ですから、「この国を守るために自衛隊を自衛軍に名前を変えただけですからみなさん安心してください。この国を守る軍隊ですから、自衛軍ですから」というのなら9条の2項を変え必要はないのです。自衛隊を自衛軍に変えるのは単に名前を変えるだけではないのです。軍隊を外国に出して、日本の自衛軍に何をさせるのかということについては何の歯止めもかかっていません。「法律の定めるところにより」となっています。新憲法草案の2項の3にはそう書いてあります。法律の定めるところによりというのは、その時々の政治家の多数決で、今で言えば自民党と公明党だけで好きなように自衛軍を外国に出せる、好きなようにアメリカ軍と軍事行動をできるというそういう憲法になっているということです。「さて、それにあなたは賛成ですか?反対ですか?単に自衛隊を自衛軍と名前を変えるだけではないですよ。この国を守るために必要最小限の実力以上のことを、アメリカ軍といっしょにやれるそういう憲法にすることにあなたは賛成ですか?反対ですか?」という問い方、問われ方をしないとおかしいわけです。ですから、「国を守るためには軍隊ぐらい必要じゃないですか」という人がいたら、「そんなことは今のままでいいわけです。それを超えることをやろうとするからでしょう。それでもあなたはいいんですか?」と。
そういう説明を私たちはいろいろな人にしていかなければいけないだろうと思います。

格差社会の拡大

 この自民党新憲法草案の3つ目の特徴として22条という条文を変えようとしています。
22条は職業選択の自由です。22条には「何人も居住権及び職業選択の自由を有する」と書いてあります。職業選択とは自分で仕事を選ぶ自由、選んだ仕事を続けていく自由、営業活動をしたいとか、企業が経済活動をしたいという企業活動の自由ですね。資本主義社会の中で、自由な経済活動をする自由なのですが、それを変えようとしている。どう変えるか。今の憲法には商業選択の自由が「公共の福祉に反しないかぎり、何人も居住権及び職業選択の自由を有する」となっています。「公共の福祉に反しない限り」という歯止めがかかっているのですが、この「公共の福祉に反しない限り」を削除するという改憲案なのです。さて、「公共の福祉」という言葉なのですが、実は今の憲法で4個所登場します。12条、13条、22条、29条です。12条と13条に出てくる公共の福祉というのは簡単に言えば、「他人に迷惑をかけない範囲で」という感じです。これがあらゆる人権にかかってきます。あらゆる人権は「表現の自由」にしろ何にしろ、他人に迷惑をかけることはダメですよ。他人に迷惑をかけない限りあらゆる人権は保障されています。22条の、企業活動、会社が活動する場合の「公共の福祉に反しないかぎり」というのは経済的な弱者を守るために、経済的な強者を制限するその根拠となるものなのです。例えば大規模なスーパーやショッピングセンターが地方都市の郊外にドーンとできてしまうと地元の商店街や駅前のお店とかはもう競争にならない。負けてしまうわけです、そこで、大型のショッピングセンターやスーパーマーケットの進出に対して、待ってください、床面積などを制限させてもらいますよという時の根拠がこの22条の公共の福祉なのです。自由競争は大切だけれども、それが行きすぎると弱肉強食になって格差が開いてしまう。それはあまりよくない。だから強い立場の人たちにちょっと我慢をしてもらう、その根拠が22条の公共の福祉なのです。それをあっさり削除しているのです。もう意味は明らかです。格差社会万歳、自由競争万歳、強いものはどんどん強くなってください。弱いものは自己責任でしょう。そういう考え方なのです。そういう価値観ででき上がった憲法草案なんだということも知っておかなければならないと思います。
 格差がどんどん開いて、生活が苦しいという若者がどんどん増えれば、どうぞどうぞ軍隊がありますからということになるわけです。自衛軍がありますから自衛軍にいらっしゃい。給料いいですよ。車の免許も取れますよ。大学に行けますよ。どうぞ自衛軍にいらしてくださいという話になるわけです。アメリカでは疲弊した地方都市の高校生などをリクルートして兵士に仕立て上げてイラクに送るということが起こりました。それと同じことが日本でも起こるわけです。格差が開いたほうがいいということなのでしょう。自民党の憲法草案は、一人ひとりの国民よりもまず国が大切ですよという価値観、国の利益の下に国民の自由があるに過ぎません。それから軍隊を持って、国を守ること以上のことをアメリカ軍と一緒にやれるようになります。それはアメリカと同じ普通の国になることを意味しています。アメリカやイギリスと同じ普通の国になるということはとりもなおさず、ニューヨークやロンドンのようなテロの標的になる普通の大都市になるということにほかならないということなのです。集団的自衛権は勿論どうどうと行使できるようになります。アメリカが戦っているアメリカの敵に向かって日本がどうどうと攻撃できるようになる。日本は別に侵略されたりしていないのに、アメリカが攻撃を受けたら日本も相手をやっつけることができる、そういう集団的自衛権をどうどうと行使できるようになる。そういう憲法にすることにあなたは賛成ですか?反対ですか?これが参議院選挙での改憲の争点にするということの意味なのです。私たちは具体的に理解して、単に抽象的に改憲に賛成か反対かではないぞということをしっかり理解していなければなりません。 法律と憲法の違い
 では私たちの憲法というものは、何を大切にしているのかということですが、最初にお話をしました一人ひとりの個人を人間として尊重する。それが根本にあります。そもそも憲法って何だったのだろうかというと、みなさんは法律と憲法の違いはおわかりだろうと思います。でも私は20代のころ、大学で憲法を勉強し始めた頃には法律と憲法の違いはわかっていませんでした。憲法は法律の親分だと思っていました。
 でも法律と憲法は全く違う。子どもに法律と憲法はどこが違うんですかと聞かれてぴしっと答えられる大人は当時はほとんどいなかった。憲法で一番大切なことはなんですか?一言で教えてといわれて答えられる人はいなかった。私もです。せいぜい3原則を言うのが精いっぱい。人権尊重。国民主権。平和主義といった3原則を言うので精いっぱい。3つじゃなくて一つにしてくれ、一番大切なものを一つだけ教えてくれと言われて、答えられる人はほとんどいなかったのです。
 でも憲法というものを少しずつ勉強していくなかで、分かってきた人が増えて来たのではないでしょうか。私たちは法律に従います。それは法律が正しいという常識があるから。ではなぜ法律が正しいといえるのか。それは国民の多数が指示して賛成してつくった法律だから。昔はそうではありませんでした。「天皇がつくった法律だから正しい」の一言で終わり。今はそうでありません。多くの国民の皆さんが賛成してつくった法律だから正しいのです。これを国民主権といいます。では、国民主権の国なのだから多くの国民が賛成し支持した法律だから正しい、そうなのでしょうけれど、それでは常に正しいのか。国民の多数決で決めたことは常に正しいのか。実はそんなことはないわけです。私たちはその時どきの国民の多数に従っていろいろな過ちを犯してきました。それこそ日本が始めたかつてのアジアの戦争だって、アジアのみなさんを解放するための正しい戦いだ、正義の戦いなんだとみんな信じこまされて、大本営発表という嘘の情報に信じ込まされてみんな旗を振ったではありませんか。その時々の情報操作に惑わされたり、ムードに流されたり、目先の利益に目を奪われて私たちは正しい判断ができなくなる。国会だって、多数決で決めたから正しいなんてことはない。戦前、「治安維持法」という天下の悪法があったそうじゃないですか、私のように学校で好き勝手なことを言うと、すぐに掴まって牢屋に入れられて拷問されるということがあったのです。1925年に治安維持法ができた時に、当時の帝国議会でそれに反対した人は衆議院でたった13人でした。貴族院議員ではたったひとリ。圧倒的多数で国会を通過したのです。でもそれは後からふり返れば大変な間違いだった。そんなことを私たちはしょっちゅう繰り返してきているわけです。アメリカの9.11以降のイラク戦争でもそうじゃないですか。イラクに大量破壊兵器が隠されている、アルカイダと結びついているぞという嘘の情報をアメリカのみなさんは信じ込まされて、みんなで応援してしまいました。でもそれは大間違いだった。それこそ、ヒトラーの時代のドイツもそうです。ヒトラーは演説がうまかったそうです。国民大衆をわーっと熱狂させて、そうして、その国民の支持のもとで彼は首相にもなり、国民投票を繰り返して、オーストリアを併合したり、ナチの虐殺などひどいことをやってきました。ヒトラーは演説の時に一つルールを決めていたそうです。彼は演説は夕暮れ以降しかやらない。真っ昼間の明るいところで演説をしても国民は陶酔しないからです。酔わないからダメなんです。暗いところでスポットライト浴びて演説をすると、みんなわーっと盛り上がったのですね。そういうことをすごく考えていた人で、「我が闘争」という本にこんなことを書いています。「大衆の理解力は小さいが忘却力は大きい。彼らは熟慮より感情で考え方や行動を決める。その感情や行動を決めるのは、肯定か否定か、愛か憎しみか、真か偽りか、と分かりやすい。肝要なのはそれを一つに絞り、方向を振り向けて憎悪をかき立てることだ。言葉は短く、断定と繰り返しが必要だ」もう2年ぐらい前になりますが、郵政民営化のあの選挙の時に短い言葉を端的に繰り返して、この連中は民営化に反対だとレッテルを貼って、国民の批判をそこに集中させて、ごそーっと票を持って行った人がいましたよね。あれはマニュアル通りなのです。ヒトラーのマニュアル通りのことを今の時代にやられて、私たちはそれに乗っかるわけです。当時と今と違うのは、自民党は電通やマスコミを使っているということがあるわけですが、基本は変わりません。そういうものなんですよ。民族を超えて時代を超えて、私たち人間というのは常にその時の情報操作に惑わされたり、ムードや雰囲気に流されて、正しい判断ができない。そういう弱いところを持っているのが人間なんだ。不完全な生き物が人間なんだ。だからその時に多数決で決めてしまってはいけないのだ。その時々に多数決でやってはいけないことを、予め頭が冷静な時に列挙しておく、それが憲法なんですね。その時々に多数決で、わーっと盛り上がってやっちゃいそうなことに、予め歯止めをかけておく、それが憲法です。多数決で奪ってはいけない価値、それを人権といいます。多数決でやってはいけないことをあらかじめ決めておくこと、それが戦争です。いくらその時々の多数決で、「近くの国がミサイルを発射するぞ」などと盛り上がって、戦争のほうに行きたがっても、ダメ、戦争はやってはいけないと明確に歯止めをかけます。それから凶悪犯罪が起こって、犯人が捕まって、被害者がテレビに出てきて切々と、今すぐ死刑にしてほしい!こんな犯人をのさばらせていいのか!と訴えたとします。すると国民の大多数がそうだそうだ!とんでもない奴はさっさと死刑にしてしまえ!とマスコミもこぞって「死刑だ!死刑だ!」と騒ぐ。それでもその掴まった人がきちっと適正な手続きで裁判を受ける権利は保障されるべきなのです。その犯人に何人もの弁護士がついたからといって盛んに非難する風潮がありますが、どんな凶悪犯でも人間なんです。その人を人として扱う、その人の権利を認める、それが人権です。どんなに多数派がこんな奴はころせと言っても、その人の権利はきちっと守る。それが憲法の役割です。 弱者を守るために強者を縛る憲法 
 そうやって多数派が支持してつくりあげた政治権力を、憲法でガッと縛り上げる、それが憲法の役割です。ですから憲法というのはいわば多数派の意思に基づいてでき上がっている今の政治権力、小泉政権だろうが安部政権だろうが、我々国民の多数派が支持しているんですからね。間違っちゃいけないのは、どこかの独裁国家の権力者じゃないんです。国民の多数が支持してつくりあげた政治権力だ。そういう民主主義のもとでつくりあげられた政治権力であっても、それでもやっちゃいけないことはあるといって歯止めをかけるそれが憲法である。憲法というのはそういうふうに国家権力の側の人たちに歯止めをかけ、そして国民の権利や自由を守るためのものなのです。ですから、縛られる政治家はもっとこういうことをやりたい、ああいうことをやりたいと思うわけです。自衛隊がイラクに行ってアメリカと一緒に軍事行動を行わせたい、でも9条の2項で縛られてしまっている。だから、その縛りをなくしたい。それがまさに改憲案だというわけです。憲法改正というのは政治家の側からでてきたもので、自分たちの縛りをゆるやかにしようとする改憲なのか、それとも国民のほうから出てきたもので、連中に対する縛りをもっときつくして国民がもっと自由になれる、そういう改憲なのか、まったく意味が違うのです。ですから、憲法改正にはどういう意味を持っているのかということをしっかり私たちは持っていなければなりません。そして、その時々の国民の多数派がつくった政治権力でも、憲法でぐーっと歯止めをかけていく、いわば多数派に歯止めをかけていくことによって少数派を守る。強い立場の人、強者に歯止めをかけて弱い立場の人間、弱者を守る。それが憲法の今日的な重要な本質です。だから難しいのです。

イマジネーションを働かせて憲法を理解する

 私も20代の前半の頃は憲法なんか知らないし、無関心でした。憲法なんかどうでもよかったのです。私にとっては。まあせいぜい、試験科目の一つでしかなかった。単位を取らなくてはいけないくらいのものでした。なぜ私が憲法に無関心でいられたのかということを考えたのです。簡単なことです。私は20代前半までずーっと多数派、強者の人生を歩んで来られたからです。私のような多数派強者の生き方を、のほほんと生きてこられた者にとって、憲法なんてどうでもいいのは当たり前じゃないですか。強者に歯止めをかけて弱い立場の人を守ろうというのですから。もし私が在日で差別を受けてきたとか、車イスじゃなければ動けない体だったとか、オヤジに上の学校に行きたいのだけれどと相談したら、「やあ申し訳ない勘弁してくれ、内は生活保護を受けていて高校はきびしいんだよ」と言われて悔しい思いをしたりとか、そういう経験をしてきたら全然違ったんだろうと思うのです。でも幸せなことに、私は多数派強者の道をのほほんと歩んでこれちゃった。日本の国籍を持っているし、健康だし、そこそこ生活はできているし、おまけに勉強もできちゃったのだから、そんな幸せな人生を送ってこれた人間に憲法なんて分からないですよ。でもある時はっと気がついた。だから難しいんです。圧倒的多数のみなさんには憲法は他人事なんです。私だって、もちろん、人権は大切だ、差別はいけないと思っていましたよ。でも、「人権は大切だ、差別はいけません」なんて言ったところで、私は実は中学の時2年ばかりドイツに住んでいて、外国人の経験をして、そこで人種差別だとかいろいろ嫌な経験をしています。でもたった2年ですよ。たった2年嫌な思いをしていじめられただけ。吹けば飛ぶようなものじゃないですか。大半は多数派強者の人生を歩んでこれちゃった。だから多くの人にとって自衛隊が自衛軍になっただけ、私には関係ないわとなる。憲法を理解するには多数派側から少数派側に対しての想像力、イマジネーションを働かせないとその必要性は分からないのです。多数派から少数派に向かってのイマジネーション、それから、今は多数派だ、強者だと偉そうなことを言っているけれど、いつひっくり返って、少数派弱者に変わるか分からないぞ、入れ替わる可能性があるんだということにイマジネーションを働かせる。私だって、介護が必要になる時がくるだろうし、明日交通事故で体が動かなくなるかもしれないじゃないですか。いつ少数派弱者になるか分からないのです。そういうことを想像力を働かせて、他人事じゃないぞと理解をする。また、ある面では強者かもしれないけれど、別の面では弱い面もある。例えば公務員のみなさんたちは権力を行使する側、強い立場ですよね。憲法で歯止めをかけられる側です。でも一労働者という面からみたら公務員の人件費が高いもっと下げなさいなんて言われてしまう。多面性があります。誰でも強い面も弱い面も多数派の面も少数派の面もある。だから他人事じゃないんだ。ということを自分のこととして憲法を理解する想像力、イマジネーションですね。人権が一番簡単によく分かる方法があるんです。例えば携帯電話も全部没収して一週間ここから出しませんと言って監禁するのです。外部との連絡も取れない、食べるものは一日にパン一個、トイレはその辺に段ボールの箱を置いてみんなにお尻を向けてしてくださいという生活を一週間もしていたらさすがに自由とかプライバシーとか人権とかが大切だと思い知りますよ。抑圧は自由の母、抑圧されて初めて自由の有りがたみが分かる。病気をして初めて健康の有りがたみが分かるというのと同じようなものだと思います。でもですよ、だからといって戦争の被害にあったことがない、だから戦争の悲惨さや無意味さがわからないというのじゃ、差別されたことがないから差別の辛さが分からないというのはおかしい。確かに経験することは大切だし、経験で得たものは貴重です。でも経験してなくても、私たちには頭がついているのだから、頭を使って想像力を働かせて、それはおかしい、それはひどいことだ、やらなくてはいけないことを私たちは知性を働かせて理解できるはずです。これが人間なんだから。だから私は勿論、戦争体験なんかありません。あるわけありません。戦争体験どころか安保闘争も知らない。学生運動すら知らない。私が2歳の時に国会前で樺美知子さんが亡くなった。そういう人間でも戦争はしちゃいけない。いかに戦争が悲惨であるかを理解しようとする努力をする、そうやって憲法というのは想像力を働かせて、イマジネーションを働かせることが憲法を学ぶということなんですね。

一人ひとりを大切に

 そしてその憲法が一番大切にしていること、それは一人ひとりを大切にするということです。憲法13条は国民は全て個人として尊重される。そういうフレーズがあります。個人として尊重される。一人ひとりの人間として、かけがえのない命を持った人として誰もが同じように大切なんだ。豊かな人も貧しい人も健康な人もハンディキャップを負っている人も、日本人であるか外国人であるか、人種も性別もいっさい関係なく、およそ人間としてここに生きている、命を持っている限りは大事な命、それは誰も同じように大切なんだ。この世の中に生まれてこなければよかった子どもなんて一人もいない。日本人の子どもも、アメリカ人の子どもも大切なら、イラクの子どもだって、アフガニスタンの子どもだっておんなじ価値を持っているんだ。それが個人の尊重、そして一人ひとりが幸せになるために国があるんですよ。決して国のために個人があるんじゃないわけです。という考え方なんですね。で、勿論それは利己主義だとか自分勝手を許すとかということではありません。一人ひとりを人間として大切にするんですから、自分と同じように、この人もあの人も、みんな大切に、誰もが同じように価値ある命を持っていると同時に、一人として同じ人間はいやしない、みんな違って当たり前。むしろ人と違うことは素晴らしいという考え方です。そして、自分と違うものを認める、多様性を認め合うということが個人の尊重の考え方なのです。自分と考えが違ったり、肌の色が違ったり、宗教が違ったりしてもいいんだ。その違いを認めあって共に生きる、健康な人もいればハンディキャップを負っている人いればいろんな子どもたちがいる、それをお互いが違いを認めあって共に生きる多様性を認める。共生できる。そういう社会を憲法はめざします。そういうオープンな社会をめざしているのです。決して天皇中心の日本民族の同質性を追及する、「みんな同じ日本人だ、仲良くしようぜ」といって、内向きの「日本文化だ、伝統だ、歴史だ、愛国心だ」と内向きの気持ちになるんじゃなく、もっとオープンな、開いた、いろんな多様性を認め合いながら、いろんな人とともに生きていく、そういう社会をつくっていこうじゃないか、そういう憲法の個人の尊重という考え方なんですね。そして一人ひとりを人間として尊重するためには「人間性を打ち砕く戦争なんか絶対にダメ」という9条、そして前文の考え方が根底にあるわけです。

軍事力より信頼関係が大切

 私たちの9条はかなり非常識です。自分たちの軍隊で自分の国を守らないというのは非常識です。でも非常識を百も承知で9条を置いたわけです。軍事力によって国民の声明財産を守ることなどできないということに気がついたのです。9.11のテロによってアメリカという世界最大の軍事力を持っている国も、国民をテロから守れませんでした。ロンドンも、世界最強の軍隊といわれるイギリス軍をもってしてもロンドンをテロから守れませんでした。軍隊を持つことによってテロとの戦いといわれている。テロリストから国民の生命財産を守るというのは不可能なことです。そんなことができると思うほうがよほど非現実的だし、空想的なのだということを60年も前から気がついていたのです。これはすごいことです。日本は軍隊を持つことによって被害者にもなり、加害者にもなって結局軍事力よって国民の命は守れないということに気がつき、軍事力によらない方法を選択したわけです。これは非常識です。でも200年前、南北戦争に反対したらこれは非常識だと非難されたでしょう。でも今ではそれが常識です。今は憲法9条は非常識だとののしる人がいても、100年後にはそれが世界の常識になるべきだといって、私たちの9条は積極的平和主義をとっているわけです。軍事力によらないで国を守るというのは大変なことです。軍事力によらない別の力をつけなくてはいけない。外交力も大切、政治力も、文化の力も大切、でも何よりも大切なのは理念です。私たちはこういう理念を持っていますということを世界に発信していくこと。その力によって自分たちは国を守っていくのだということを決意した。それが私たちの憲法9条です。暴力の連鎖を繰り返していては、人類は滅亡してしまう。だから暴力の連鎖は勇気を持って断ちきる。軍隊を持って暴力はいけないといっても説得力はないわけです。アメリカが核ミサイルを持って北朝鮮の核を非難するようなものですから説得力はありません。軍隊を持たない、そういう日本だからこそ、暴力でものを解決する軍事力でものごとを解決することは真の解決には繋がらないということをきちっとアピールできる。そして、紛争地域の火種、原因を追及する。貧困だったり、差別だったり食糧問題だったりという原因をなくすために積極的に出かけていってさまざまな国際貢献をすることによって信頼される国をつくっていくのだ。そして一人一人をまもるという決意をしたわけです。
 私は中学生の頃ドイツに2年ほど住んでいましたが、東西の壁は私が生きている間には無くならないと思っていました。ところが89年から90年にかけて無くなったわけです。それに対してドイツの友人の一人が「壁の向こうに友だちを作ったから」といいました。壁の向こうに仲間を作れば壁は壁じゃなくなるといのです。日本はそうやって外国とうまくやっていこうということを決意したのです。60年前に。
 といっても北朝鮮や中国のように軍備を拡張している国が周りにあるのは脅威だという声もあるでしょう。軍事力が脅威だとその人たちはいいます。軍事力が脅威だというのなら世界の軍事力の半分を持つアメリカは日本にとって最も脅威だと言わなければなりません。でもそうは思っていない。なぜか、アメリカとの信頼関係がそれほど崩れていないからです。脅威の本質は軍事力があるかないかではないのです。信頼関係が築けているかどうかがポイントなのです。もし、北朝鮮や中国が脅威だというのなら、それは信頼関係が築けていない、それが脅威の本質なのです。何が脅威の本体なのかを見誤ってはいけない。私たちはそれらの国としっかりとした信頼関係を築けるようにして、軍事力を錯減する方向に近づけていく、それがアジアの国々との安全保障に繋がるわけです。積極的に非暴力によってあちこちに働きかけ、信頼される国をつくることが、何よりもこの国の現実的な安全保障なのであり、国際貢献なのだと思います。 憲法9条は世界の宝
 しかも日本国憲法には、我らは全世界の人々が等しく脅威にさらされることなく平和のうちに生存する権利をもつことを確認するというフレーズがありあます。「日本が」ではなく、わざわざ「全世界の」と書いているのです。こんな憲法は見たことがありません。日本人だけが恐怖と欠乏から免れ、平和に生存すればいいなどと考えてはいない。世界中の人々が恐怖と欠乏から免れ、平和に生存できるように頑張りますと言っているのです。人類のことを考えているのです。それが、前文と9条の平和主義なのです。すごいことだと思います。他の国より一つステージが上なのです。だからこの9条、この憲法は世界の宝なのです。それが理想なのです。確かに憲法は理想なのです。現実との間にはかなりの隔たりがあります。理想と現実が食い違っているから憲法を変えろという人は必ずいます。でも考えてください。それなら14条も変えるのですか?14条は「法の下の平等」なのですが、世の中は差別があふれています。だから「法の下の平等」を引き下げて「差別はあってもよい」とするのでしょうか。憲法だけではないですよ。刑法235条「窃盗罪」は、「泥棒はいけないと言っています。」でも泥棒はいっぱいいます。現実とかけ離れているからといって、「泥棒はちょっとぐらいいいです」というふうに変えますか?理想と現実が食い違うから変えるというのは嘘です。どちらがいいのかという価値観を書いているのです。理想と現実が一致しているなら憲法などいらないのです。理想と現実が食い違う、だからこそ、こころざしを掲げてこっちに進むんだぞーと、50年後100年後、200年後の日本はこっちに行くべきなんだということを指し示すものとして、この9条が大切なのです。それをしっかり認識して、私たちは今を生きる人間として、憲法の価値、9条の価値を次の世代にきちっと受け継いで行かなければならない、伝えていく責任があるのだと思います。