市民の力でマスコミを変えよう

 

2016.12.4.練馬区役所地下多目的ホールにて
 

       

講師  大治浩之輔 元NHK記者

 

プロフィール

1935年東京生まれ。1959年東京大学法学部卒。1962年入局。67年社会部。ロッキード事件など政治腐敗事件と公害環境問題を柱に取材。水俣病事件は81年まで継続取材、ドキュメンタリー「埋もれた報告」(76年)は芸術祭大賞。90年盛岡放送局長。92年定年退職。
99年までNHK出版・編集局長。NPO法人マスコミ市民理事長。

はじめに

たまたま今日は、一緒に仕事をしていた社会部の仲間が本を出しまして、その出版記念のパーティに出席したため、講演時間を遅らせていただきご迷惑をおかけしました。本のタイトルは『角さん 褒められすぎですよ』というのです。今年は田中角栄ブームらしいですね。石原慎太郎が書いた田中角栄論がミリオンセラーになっているようですが、その内容がいかにデタラメかということを書いた本です。
 田中角栄という政治家をどう捉えるか。勿論、金権政治家であり、ロッキード事件で追究された人です。私はそのころ社会部にいましたから、この問題を追及しきれなければ日本のデモクラシーそのものがアウトになるという気持ちで頑張っていましたが、ちょっと引いて考えて見ると、戦争で負けてあちらこちらが空襲でめちゃめちゃになって、どん底の生活があった。けれども、平和を守る、戦争はつくづく嫌だというところからスタートした戦後の日本人の私たちは、昨日より今日、今日より明日というように少しでも生活を安定させ、向上させるというふうにやっていった。
 ある意味田中角栄氏は、戦後の日本の動きを象徴する、それを背負った政治家だったのではないだろうかと思います。戦争が終わったとき私は10歳でしたが、彼は26歳、つまり戦後の日本を背負う第一世代です。そういう昨日より今日、今日より明日という気持ちは当時の多くの日本人に共通しています。だから、小学校しか出ていない政治家が頂点まで上り詰めて、総理大臣になったときは「今太閤」ともてはやされたのです。そのように時代を背負っていたのです。

 あの時代、硝煙のにおいがだんだん遠ざかり消えていく。そういう時代の中で政治家たちが動いていた。自民党というのは常に過半数を占めて独裁政権になっている。で、そうやって日本の支配を続けてきた。政権交代がないということについ

て不思議に思わない有権者、それになれてしまっている有権者。となると、原則としてのデモクラシーはどこまで到達されているだろうかという面はあっても、硝煙のにおいは消えていく。田中はそういう時代の象徴だったと思います。再び硝煙のにおいが近づいてくる現在とは大分変わってきているなと思います。
 田中角栄が昭和47年に角福戦争をやって勝った。それから3年後、昭和49年に「日本列島改造論」とをひっさげてやってきます。「日本列島改造論」はとりわけ新しいわけではなく、岸信介の時に「安保改造論」があって、その後池田勇人が「所得倍増論」を打ち出し経済路線で行って、その後、「新産業路線」に行きました。
 田中角栄は「列島改造論」の中で、あそこをこうするここをこうするというふうにして、都市の名前までどんどん挙げたものだから、狂乱物価でどんどん土地の値が上がっていくということが起こりました。しかし、その路線は今まで引き継がれてきています。


環境公害問題に取り組む


 私はNHK社会部の記者でしたから、「角福戦争」で田中角栄が政権を取ったことを野次馬としてみていた感じでした。私が社会部の記者として本気で取り組んでいたのは環境公害問題です。水俣病という事件がありましたこの事件は昭和31年ですから、ずいぶん前のことです。池田勇人が「所得倍増論」を唱えるそれよりも前のことです。所得倍増が出される頃には賠償を求める人々が叩きつぶされて、窒素の強行姿勢の前で失速してしまっていました。窒素は操業を止めるまで廃液の垂れ流しを続けるわけですから。

 昭和40年に新潟で第二の水俣病が起きました。時を同じくして、四日市で四日市喘息問題が、富山では「イタイイタイ病」が起きるといように、日本全国で環境汚染問題が火を吹き始めます。田子の浦のヘドロ、またあるとき校庭で突然生徒たちがバタバタと倒れる。私の家内の話では、小鳥たちが夜私たちの部屋に飛び込んでくると言うのです。追っても出て行かない。そういうような現象が当時おきていました。怒濤のように押し寄せた経済優先、産業優先でやってきたときに、日本はどこに行くのかということに気がついて、公害反対運動が起こり始め、窒素でも、新潟でも、富山でも裁判が起こります。裁判が始まるときにその代表者たちは漁民であったり、農民であったりするのですが、いずれも企業を相手にした裁判と思ってはいません。「自分たちはこれから国家権力を相手に立ち上がるのだ」と言います。もし負けたら、土地や漁業権を失って、土地を出て行くという気持ちで立ち上がって裁判に挑んでいました。昭和47年には、それまで四大公害裁判と呼ばれた裁判に勝つのですが、最後に残ったのが熊本水俣病裁判です。

                 
胎児性水俣病患者に出会う


 昭和47年に私は始めて熊本に行きました。その時始めて水俣病の患者を知りました。胎生水俣病の上村とも子さんという昭和31年に生まれたの方の家に行きました。お父さんが仕事から帰ってきて、お母さんが子どもをお風呂に入れて、その子をお父さんが抱いていました。私たちは向かい合って座りました。その子は14歳なのですが、お父さんの膝の中にすっぽりと入ってしまうくらい小さいのです。色が白く目がパッチリしていて、口をあいて、あーあーと言っています。この子は目が見えないのです。耳も聞こえているかどうか良くわかりませんという話でした。お父さんが着物の裾をぱっと開いて見せてくれましたが、足がねじれています。「よく見て下さい。もうすぐ結審、来年は判決です。みなさんのご質問に何でもお答えします」とお父さんが言いました。でも私はその時ひと言も質問をすることができませんでした。 有機水銀でお腹の中で汚染されてしまった子どもは、どのような被害を身体に受けているのか、どのような被害を一生背負っていくのだろうかということを見たときに絶句して何も聞くことができなかったのです。水俣の通信部というところに記者が一人常駐しています。その記者に聞いて貰ったところ、「生まれた子どもの様子がおかしいので医者に見てもらってもわからない、その当時までは胎盤は全ての毒をチェックすることができると言うのが通説でしたから、胎生水俣病というのは認められていなかったのです。ですからどこの医者に行ってもわからない。熊本医大研究班がやってくるから、水俣の外れから町の中心部まで連れて行かなければならないというので連れて行って診てもらってもわからない。そういう子どもなのでお乳を吸う力もない。おかゆを細かくしたものを3回も4回も食べさせなければならない。栄養をつけるために山羊を飼って乳を絞って口に入れる。その内に医者に通うお金もなくなってしまう。しかたなく両親の元にお金を借りにしばしば出かけていくが、あまり頻繁に借りるので、だんだんに借りに行きずらくなる。夜会社から帰ってから親元にお金を借りに行くが、入り口の前まで行ってもどうしても中に入れない。そこで帰るが自分のうちの前までで来ると、とも子のことが思い浮かぶから家には入れない。もう一遍親の元に行くけれども玄関先で入れない。そうやってついに一晩明かしたことがありました。」とお父さんは取材に答えます。彼の家にはとも子さんの下に5人の子どもがいました。隣の部屋でキャーキャー騒いでいます。私は話を聞きながらその子どもたちは大丈夫なのかと思います。でもご両親は「いまのところ兄弟は全部大丈夫なのです。とも子がお腹の中の水銀を全部持っていってくれたおかげです。とも子は宝の子どもですたい」と言うのです。熊本水俣病というのはそういう子どもを抱えた人、あるいは自分が冒された人、漁師だった父を奪われてこれから漁を習おうと思ったのにできなくなってしまった人、両親が倒れ、弟や妹の世話に追いまくられている姉、さまざまな被害がありますけれども、原因はすべて窒素が無処理で流した排水です。魚が汚染され、それを食べた人々が水俣病に冒されたのです。いわば辛酸をなめ尽くした人たちが一遍立ち上がり、四年後に「見舞金ケア」というのがあって、窒素が補償すると言いました。でも補償ではないのです。お見舞い、みなさんが気の毒だからお見舞いをしますということで、大人の患者には一律10万円とか子どもの患者には一律3万円が支払われました。そして将来、公害の原因が工場排水であると決まったときも、あなた方が再び補償要求をすることはありません。という証文に判をつかせて、それで話を打ち切りにする。それから6年経って新潟水俣病がおきて裁判になる。その時の話が、私が訪ねた時の話なのです。


金脈問題と政治部記者

 そういうところを回ってきて、彼らが立ち上がってどんな気持ちでやっているかという状況を見て、その気持ちを一方で持ちながら、自民党の角福戦争を追う政治部を見ていました。ですから、田中角栄が勝った。「今太閤」だともてはやされるのを見て、これから何をやるかが問題なのだと思っていました。
 しばらくしてからNHKの福田派を担当している記者と、朝日のやはり福田派を担当している記者に裏話を聞きました。角福戦争で、両陣営が中曽根派だ、大平派だと、いろいろな代議士を自分の陣営に引き入れるために金を使っている。しかし、福田派は資金切れになってしまいました。福田派の参謀が信頼できるとみたNHKの記者と朝日の記者を呼んで、「相談がある」という。「ついに資金がつきた。俺が自分の家を売り、土地を売りしてやる以外に戦えないと福田親分に相談したところ、打ち方止めだと言っているが、どう思うか」と記者に状況判断を求めてきたと言うのです。社会部の記者にはそういう話はありません。なるほどそうか、「今太閤」の戦いというのはそういうものだったのか。昔から総裁選には金が飛ぶという話は聞いています。岸信介と石橋湛山の時もそうだった。いつの総裁戦の時か忘れましたが、ニッカ、サントリー、オールドパーという話があります。ニッカというのは二つの派閥、サントリーは三つの派閥、オールドパーは全部パー。それが浮動票と言われた国会議員に「金をやるから俺の方に着いてくれ」というやり方なのだということを冗談で言った言葉です。角福戦争の時も当然それはあったに違いない。しかし、その話は表沙汰にはならないのです。田中角栄の金脈問題については、立花隆が「文芸春秋」に、はじめて金の出入りを詳細に跡づけて書いたら「金脈が現れた」と立花氏が言っていました。日本の政治部記者はそういう跡づけはやっていません。金脈問題がおきたときも国内でもう一遍火を噴いたのです。官邸用記者会見で、官邸記者が田中角栄にその質問をして問い詰めた。その前に外人記者クラブで、田中角栄が総理の立場で記者会見をした。彼は日本列島改造論をはじめとして彼の政策をぶって、それに対する質問があるのだと思っていたら、外人記者クラブの記者たちが質問したのは、金脈の問題だった。終始一貫して金脈の問題を追及したのです。当たり前です。それがジャーナリストのやるべき仕事です。外人記者クラブで追求された顛末を日本の新聞は書いているわけです。人のフンドシで相撲を取っているのです。さすがに官邸の記者クラブも泡くって、自分たちももう一度田名角栄と向かい合ってこの問題を調べなくてはいけないということになりました。これも後から聞いた話ですが、各社の官邸担当記者が集まって、「官邸相手に質問をする。絶対にひるむな。各社必ず一問は質問をしろよ」という風に談合をした上で、官邸記者会をしたという話を聞いたことがあります。残念ながら、ニッカ・サントリー・オールドパーと言っている時代から金の飛び交う総裁選、しかし、担当記者はそれを知っていても書かない。その実態を明らかにすることはない。それを全部あからさまに書いたら、書いた方がいじめられることは目に見えているのです。それでもそれは市民から支持されるでしょう。

 

市民・マスコミ・権力


 今日のタイトルは「市民がマスコミを変える」ですが、レジュメに私は「市民・マスコミ・権力」と副題をつけました。権力と向かい合うマスコミ、ジャーナリズムというのは昔からあります。今でもそうです。この関係を2者の関係だけでは論じられないのです。もう一つは市民の力です。市民が直接マスコミを変えるということもあるかも知れない。同時に市民が持っている力は政治を変える。そういう力を持っているはずだ。しかし、最近の選挙を見るとたかだか25%の得票率で自民党政権を取ってしまう。それは投票率が低いからです。政治を変えることができると確信する投票が少ないからです。しかも戦後の政治を一貫して見てきたけれども、市民はどこまで自分たちの力に目覚めて投票しているのだろうか疑問です。これは市民だけのせいではない。それはマスコミが正しい報道を流さないからではないかという逆回りのことも考えられます。しかし、そういう3つのトライアングルにある関係を前へと回すことが大事なんだと、常々感じています。

なぜ籾井がNHK会長になったか


 最近の新聞報道を見ますとNHKの会長は今回どうやら替わるようです。わたしどもOBも籾井氏が会長になって最初の記者会見で「従軍慰安婦の問題などはどこにいってもある」とか「政府が右と言うものを左というわけには行かない」とか言うのを聞いて飛び上がりました。およそ考えられない。いくらひどいのが来たと言っても「政府が右と言うものを左というわけには行かない」というのはジャーナリズムじゃない。政府が右と言ったら、「政府は右と言ってますよ」と伝えるのは当然です。同時にジャーナリズムは、政府が右と言っているが本当なのか。事実に適合するのかどうかを調べるのです。調べて違っていたら、「政府は右と言っていますが本当は左ですよ」と伝え、更に「なぜあなたは左なのに右と言ったのですか」と政府を問い詰める。そして「その結果はこうですよ」とみんなに知らせる。ジャーナリズムの普通のやり方です。籾井さんのように「政府が右と言っているのに左というわけにはいかない」というのは、これ一点でもアウトです。従軍慰安婦の問題も同じです。従軍慰安婦の問題は日本の戦争責任の問題を抜きにすることはできない。飾り窓の人形といっしょにされては困るのです。そんな人が会長をやっていると、下で働いている人間は恥ずかしくてやってられないというような人物です。しかしそういう人間を会長にしてしまった責任は国にある。NHKの制度というのは、本来はそういういい加減な人が会長になってくるというようなことはチェックされるしくみになっているのです。

NHKの歴史

 放送は1925年に始まります。普通選挙法がはじまる年です。普通選挙といっても男子だけです。それに備えて治安維持法ができるという年に放送もスタートします。治安維持法は国体(天皇制)を変革するような言論を流布する者は最初は懲役10年、後に死刑ということになりました。もう一つは資本主義体制を変革しようとする言説や行動をとるものは同じく最初は懲役10年、のちに死刑というふうに、治安維持法がついて回りました。1945年に日本が負けて、万世一系の天皇の支配する国ではなくなり、治安維持法が廃止されるまでは、日本の言論は、新聞も出版も放送も全く自由はなかった。常に検閲制度がついて回っていた。日本放送協会がスタートした時、最初の総裁、後藤新平は「文化の機会均等、家庭生活の革新、教育の社会化」など、なかなか良いことができそうなことを言っております。けれども放送がスタートした時に、放送は直ちに政府の監督下に置かれました。番組内容も人事も予算も放送原稿は常に事前検査を受け、おかしければ中止命令が出ました。電波局長の通達というのもあって、「放送すべからざること」として、「安寧秩序を乱し、風俗を乱す事項、政府の機密、官公庁が公開していない事項」などが挙げられました。今のジャーナリズムだったら、公開していない機密事項を取材してくれば「特ダネ」として褒められるわけですが、その頃は、それは法律にも規則にも違反することになっていたわけです。戦争が終わる頃には、日本が負けても負けたという放送はしない。負けているという放送を流すと「害を流す放送」になってしまいました。新聞もそうです。それらはすべて検閲制度が行われたことによります。そういうことの反省の上に立って、戦後はそれを改めて、新しい放送法ができました。放送法の最初にあるのは「真実と事実を報道する。日本の民主主義のために、職員は励まなければならない。」ということが義務づけられているのです。

会長の任命

 経営委員会の会長は政府が直接任命するのではありません。12人の経営委員が指命します。経営委員は政府が指名します。指名をするけれども国会の承認を得なければなりません。理想的な三権分立が想定されているのです。アメリカの制度でも、最高裁の裁判官は政府が指名して議会の承認を得て任命されます。最近はオバマ氏が指名した裁判官は、ねじれなので上院の多数派である共和党が認めない。それで判事の欠員が続いているというような状況が起きていますが…。行政府の長が国権のもう一つの責任者である最高裁判事を指名します。それについてもう一つの国権の最高機関と言われる議会が、それが本当に適性であるかを論議した上で認めるか拒否するかを判断する。そこで初めて行政と立法の間の三権が共に働いて公正な人事ができるであろうというふうに、日本の政治のシステムもなってはいるのです。しかし残念なことに日本の国会が政府に対して自立性を発揮したとは言えません。自民党が多数を失って野党になったとき、その時だけ野党が政府人事を拒否するということがありました。今のように絶対多数を与党が取っていて「独自性を国会議員が失っているときにはそのまま、すいすいと通ってしまうので、三権のチェックが働かないまま、NHKで言えば、経営委員に安倍首相の元家庭教師とか、お仲間の百田直樹とか長谷川三千子とかが、普通常識のある国会であれば当然チェックされたであろう人がすいすいと通ってしまう。その経営委員が推薦する会長ということで、籾井氏が出てきたということです。
 最近安倍さんはついに「自分は国会の長である」とまで言い出しています。彼の頭の中は国会の権限を全部自分が持っていると思っているようです。そう言われてもしょうがないようなありさまに今の国会はなっています。ろくに審議もしないで、TPPやリゾート推進法やカジノまで強行採決してしまうというていたらくに国会はなっている。しかし、それを言うなら、その国会を許容しているのは誰だというように、私たちに返ってくると思います。

11人の理事に辞表を書かせた籾井氏

 籾井氏が会長を務める経営委員会の下に位置する理事は11人、会長を含めて12人いますが、その11人に対して籾井氏が辞表を出せと言ったのです。「あなたたちは今までの会長が任命した理事だから、私の勝手で理事を選びたい」ということです。
NHKというのは、放送法で、「民主主義を推進するという自立した精神が職員の責務」だということになっています。理事というのは経営委員会の承諾を得て会長が任命することになっています。それを辞めさせて自分勝手に組織を動かそうとする。あるいは「どこどこに行くから車を出せ」という。「そういうことはNHKの規則では決められておりません」というとその支所長をクビにするということを、直ぐに始める。そういう人がトップにいると、かなり組織としてはマイナスがおきてくる。
 そして何かというと「偏った放送があれば電波の停止もあり得る」と言う。そんな話に現場が怯えるとは私は思いません。しかし、現実に怯える会長、あるいは怯える理事が出てくることはあり得ます。組織の中で問題なのは、外の権力と現場のディレクター、これが直接向かい合って対立するということに恐れは感じないのです。それはいつもやることですから。きちっと相手の言質を取り、相手とやり合ってきちっとした証拠を取ってくればそれは手柄なのです。判断は放送をしたときに市民がどういう反応をするかに全てを委ねる。

視聴者の反響に励まされて

 最近の例でいうと、「未解決事件シリーズ」というのがありまして、ロッキード事件を検証した番組がありました。7月の土曜日と日曜日にかけて三部構成で放送されました。ロッキード事件の追及の様相をトレースする。ロッキード事件というのは、ロッキードの航空機の導入をめぐって政府には許認可権が働くので、田中角栄氏に5億円の賄賂が送られた。大型旅客機の導入です。導入時期は昭和46年だったのが昭和49年に延期されたのです。昭和46年ではロッキードが間に合わない。他の航空会社の飛行機なら間に合うのだけれども、ロッキードの生産が遅れているので、日本に於ける導入時期を延ばして貰わないと競争に参入できないということで、田中角栄に5億円の賄賂を贈ってごり押しをしたというものです。もう一つの問題はP3Cという対潜哨戒機、今でも自衛隊が使っています。最近アメリカではもうそれは止めて、日本だけがP3Cを使っている。そのP3Cの導入をめぐってロッキード社が21億の金を児玉誉士夫に払う契約があった。ところが東京特捜部はP3Cに関しては証拠がないということで、P3Cは表に出さないで、民間航空機の導入だけで事件を終わらせようとした。しかし、今回の放送ではやはりP3C裏契約はあったという商社マンの証言が出てくる。「国産化すると商社への還元利益もない」と言う関連企業の商社マンや、元自衛官、児玉誉士夫に頼まれて判を押したという男、「国産化は高くつくというアメリカの働きかけを受けて白紙に戻した」というアメリカの当時の国防長官のなどが、ロッキード事件から40年たった今、証言している。この世からあの世に行きかけている人たちから証言を取って、その時の真実を伝えている。この企画に対しては、私がロッキード事件を追いかけていた頃には生まれたばかりだった若者たちが、今、NHKの中核を担っている。彼らが「先輩、教えてください」と相談に来た。私は折に触れて相談にのりました。7月が田中角栄逮捕の月だから、せめてそれを超えないで放映しようと頑張りました。私は世代から世代へ引き継がれて、前の世代が追求し残したことを、次の世代が追求して行くほど痛快なことはないと彼らに伝えたのですが、やはり苦労はありました。そもそも企画の時から「そんなことをやって大丈夫か」と言われました。けれどもしっかりと取材をし、証拠、証言を集めて次第に大丈夫だという気持ちが、現場だけでなく上の方にも出てきたということで最後まで突破できました。何よりも嬉しかったのは、番組が放映された後の視聴者からの反響でした。「本当にご苦労様」と拍手するように言うのです。

40年前も視聴者は強い味方だった

 自分でもそういう経験はありました。例えば丸紅の工作について、「児玉誉士夫が秘密情報官をやっていたなんて初耳です」とか、国会証言で「ピーナッツP3C、知りません」という発言を僕らは偽証だと思うけれども、それを証明しないとニュースは書けない。それから実は取材が始まるのです。丸紅の関係者だけでなく、その関係者だと思われるような財界人に取材をしていくと、「昼間の工作は丸紅がやっていて、夜は児玉誉士夫がやっていた」、また別の人は「彼らと児玉はよく料亭で落ち合っていたよ」その内に「伊藤の奴が児玉の機嫌を損ねて庭の池に叩き込まれたのを見た」というような話があったり、いろいろな証言を集めていって、丸紅からの抗議に対しては「NHKはきちんと裏付けを取って、取材をして番組を出しているのだ」と反論する。それらのやりとりの後、丸紅から「名誉棄損で告訴します」という手紙が来ました。そこで私は「告訴するならしてくれ、何の罪もない人間を罪に陥れようとするのは犯罪だ」と返事をしました。告訴の手紙を運んできた代理人は、私が取材をしたことのある元刑事でした。しかし、取材に一点の隙もなければ、水漏れのないような取材をして、原稿を出せばどんなに激しく相手が責めても、事実に基づいていれば恐れることはないのです。その時に全国から社会部宛に電話がかかってきました。「お前のところ良いことやるじゃないか」「見てるぞガンバレ」と言うのです。あの時のことを思い出しました。

検察庁を動かしたロッキード事件報道
 検察庁は、ロッキード以前に政治家を捕まえたことはありません。昭和43年に日通事件という事件がありました。日通が独占輸送をやっていたのです。それを国鉄など全国通運がもう運動をやって議会で取り上げたところ、日通側が防衛に回って、池田正之助議員に議会発言をしないように賄賂工作をしたことで2人の国会議員が起訴された。ところ起訴された自民党の国会議員が新しい検事総長の子飼いで、「池田の起訴はまかりならん」という話になって、一旦起訴になったのですが、東京地検特捜部の主だったメンバーが全部飛ばされたという事件がありました。それ以降、東京地検特捜部は政治家を捕まえていなかったのです。そういう事情を知っているものだから、東京地検はいつ捜査に乗り出すのか気が気ではありませんでした。「日本のデモクラシーは死んだ」と社会部の記者たちは盛んに言っていました。ロッキード疑惑を本当に自立的に追求できなければ、日本の民主主義、日本のジャーナリズムは壊れると思って、取材に臨んでいたことを思い出しました。あのころ、会社員や会社帰りのお嬢さんまでもがデモをしていました。それで丸紅に向かってピーナッツを投げつけていました。新聞もテレビも週刊誌も、とにかく活字という活字は全部ロッキード事件で埋まっていました。それぐらいに、日本人はやきもきしている。「列島改造」あるいは経済優先の中で公害問題が起き、住民運動も巻き起こっていましたが、そういう状態の中で、アメリカから持ち込まれた事件でしかも検察は捜査にも入っていないからです。そういうやきもきしている視聴者の気持ちがまともにぶつかってきていることを強く感じました。全国の放送局にそういう電話が嵐のようにきているのです。どの新聞社にもそういう嵐は吹いてくる。だから社会部に「今度の事件はどこまでやるか、ターゲットは誰だ」と政治部の記者から電話が入ります。「あの政治家から背広を貰っているのだけれどどうだろう」という電話が来たときは、「それはやばいぞ。検察庁は徹底的にやると言っているから」と嫌みを言ったりしますが、それを他の社の人に話すと、彼らも「そうなんだよ。本当に政治部というのはだらしない、地検特捜が操作を始めると途端に、そういう電話がかかってくるよ。」と言います。社会部同士ではそんな話をします。社会部がそれだけ力を入れてやっていると、政治部もこれは力を入れなければいけないのではないかと思うようでした。

一本の電話が現場の励みに

 その時につくづく思ったのは、僕たちは一人でやってるわけではないということです。今回の放送のときも、関係者は「大治さん、嵐のように来るというのがわかりました」と言っていました。嵐のような反応が来ると、その後直ぐに再放送が実現できました。すると、新聞協会賞を狙おうとか、芸術大賞を狙おうとして芸術大賞に出すという展開になるのです。つまりこれはNHKの現場と経営委員会の関係とは昔も今も変わっていないということなのです。つくづく思うと同時に、そのことを視聴者、市民に知らせなければいけないと思います。私に電話の一本ぐらい何の意味があるかと思うかも知れないけれど、一本の向こうに何人いるかわからない。電話が次から次へとかかってくればそれは現場の励みになるのです。NHK全体にそういうことを考えさせる。「そうか、これをやるとこれだけの反響があるのだ」ということを知らせる必要があるのです。最近は不払い運動などをやる人が多いのですが、それはそれとして、この番組はいい、これはおかしいということも大事なのです。受信料を供託して問題が解決したらその分を払うという人もいます。NHKは税金でもないのに、強制的に払わされている人たちに支えられている、そういう人たちのために真実を伝えるということが放送法にも書いてある。ということで、電話をして貰えればありがたいと思います。

伝説の会長たち
 私たちOBの間で、直ぐに籾井氏を辞めさせようという運動をやってきました。それで彼がやめることになったとは思わないけれども、辞めましたね。辞めたのは経営委員会の決定でしたけれど…。籾井氏はひどい、安倍政権にとっても彼を会長にしておくのはマイナスですね。問題は次の人がどうかということです。本来NHKの精神から言うと、最初に会長になった髙野岩三郎さん、彼は、日本が戦争に負けて憲法をどうするかというときに、政府が作ってきた草案は明治憲法から抜け出ていないので本当に民主的な憲法をつくろうと、鈴木安蔵たちの憲法案の推進者です。髙野岩三郎さん自身は共和主義者でして、彼自身は共和国憲法の草案を書こうとした人ですが、最初のNHKの会長になりました。
 彼のスピーチは本当に素晴らしいと思います。当時はラジオだけだったので「ラジオを通じての新生日本の事業は民主日本の建設である以上、放送の対象は国民大衆であり、勤労者大衆が中核です。したがってラジオは大衆とともに歩み、大衆のために奉仕しなければなりません。太平洋戦争中のようにもっぱら権力に駆使され、国家目的のために利用されることは、厳にこれを慎み、権力に屈せず、ひたすら大衆に奉仕することを確守することです」実に美しい言葉です。今NHKの会長がこういう言葉で職員に語りかけたら、職員は感動するでしょう。この精神は今でも変わらない筈です。また「指導者顔をして大衆とかけ離れ、はるか彼方から大衆に号令したり強制してはなりません。あくまで大衆と共に歩む心がけが肝要です。しかし、これは大衆に媚び、盲従することであってはなりません。ラジオの真の大衆性とは、大衆とともに歩み、大衆と共に手を取り合いつつ一歩先んじて歩むことです。そのためには一党一派に偏せず、徹頭徹尾、不偏不党を貫くことが大切です」こういうことを会長が話しかけるというようなものであって欲しいと思います。
 1960年の安保闘争の時、NHKが毎日その状況を放送している時に、自民党の国会議員が
10人ばかりがやってきて、会長室に入って来て注文をつけた。当時のNHKの会長は野村さんという朝日新聞の政治記者だった人ですが、彼は「君たちは国会へ帰れ。まじめに政治をやれ。放送は放送の者に任せろ!」と一喝したそうです。これもなかなか見事な話で、NHKにずっと伝わっています。そういう人であってほしいと思います。NHKの会長は、自分一人で抱えきれないようなものは情報公開すれば良いのです。こういう圧力あったということを情報公開して、その上で、「さあ受信者のみなさんどう考えますか」と尋ねればいいと思います。

放送の独立を守るBBC

 イギリスのBBC には、そういう伝統があるのです。「BBC放送の戦い」というドキュメンタリーがあります。それはBBCの元会長が放送の独立のためにいかに戦ってきたかということを自らが語るものです。これは素晴らしいと思いました。その会長がBBCの現場にいたのは、第二次大戦の時、国際放送の現場にいたのです。BBCの国際放送はウソをつかないことで戦後有名になりました。イギリスが戦争で負けていても隠さないというので有名になって信用を得たのです。最後はドイツの人々もBBCを聞いていたという話が戦後伝わってきました。これはそう簡単に実現したわけではなかったのです。日々は戦いの連続だったと元BBC会長さんは言っています。あくまでも真実に近いこと、そのためには情報機関、軍事機構、その中の官僚機構はイギリスが負けていることを伝えるのは嫌がります。それと戦って、あらゆる攻撃に対する訓練を受けたとBBCの放送の人が言っているわけです。ヒットラーが最後にBBC の放送を聞いたということが話の中で出てきます。五〇年代にイスラエルとエジプトが停戦した話が出てきます。ナセル大頭領が、スエズ運河がイギリスとフランスの管轄下にあったのを、エジプトが自分の管轄下に置いたのです。その時にイスラエルがエジプトを攻めます。同時にイギリスとフランスも管轄を主張し軍隊を出すのです。その時BBCは、イギリスは保守党の政権なのですが、BBCは「わが軍」などという放送はしないのです。「イギリス軍は」という放送をするのです。イギリス首相は、この戦争はイギリスが国威をかけて戦うと言う、野党は反対しているのです。国論は二分していたのです。BBCは「国論が二分しているときは一方に偏した放送はしません」と言う。放送する倍は政府と労働党を時間も回数も全く同じにする。ですから当然にらまれるわけですが、イギリスは強権を発動して政府の報道をさせようとまではしない。そういう態度を貫いたということはBBCの信用度を高めることになる。
 後のフォークランド戦争(アルゼンチンとイギリスが争った)の時も「わが軍」という放送はしない。事実の報道に徹すると言うことをしています。この精神は本当に学ぶべきだと思います。彼らは、「問題は圧力がかかることではありません。圧力に屈することなのです」と言います。私も本当にそう思います。現場にいたときにロッキード事件で丸紅から圧力をかけられた。あるいは窒素水俣病で窒素と行政と警察の責任を追求するドキュメンタリーを作ったことがありますが、その時は踏み込んだことを言っても事実に基づいて追求しているので、抗議は跳ね返せた。

現場は傍から見るほどヤワではないのだが

 放送は誰のためにやるのか、防衛問題ならまさしくこれは被害を受けた人々の被害回復のためにこそ、あるいは一方的に被害を受けた人の被害をもたらした者への責任追及のためにこそ戦ってはじめて公平が保たれる。そういうことで抗議が来たとしても、それを跳ね返すだけの準備をしておく。圧力が恐いのではない。圧力を跳ね返す力がないことなのです、現場は常に仕事をやっていて、誤報は別ですが、事実関係を検証して鉄壁の構えできちんと事実と論議を組み立てて出していれば、何も恐いことはない。ところが現場が一致しないときは無理なのです。上から圧力が来て、上がへこんで業務命令が来る。こういう戦いの方が遙かに難しい戦いになる。「この放送中止」上から言ってきたときに、それを押し切って断固出すというときに、自分一人で放送というものは出せないのです。放送機器を扱っている現場もあるし、いろいろな現場を説得してみんなが不当な命令だと思っても簡単には出すことができない。出したとしても、今度は職務命令違反だと言われて、また戦うということで、ものすごくしちめんどくさい戦いになります。現場労働者対メディア対市民という3つの関係の中の一番の勘所になってくると思います。だからもし攻撃してくるとしたら、現場に簡単には攻撃はしてこないのです。現場は必至になって夜も寝ないで事実関係を詰めてきたものを、そう簡単には崩すことはできない。そこで上に圧力をかけるのです。ここのところが実はその時に上にへなちょこがいると危ないということになります。最終的には市民の批判ということになります。そういうことがあからさまになることが大事なのですが。ひっくり返す力が市民にあるということを示さなければいけないと思います。その力をなくさないことが大事だと思います。自分一人では何もできないけれど。自分の働きかけが有効であることを信じていかなければ何も始まらないと思います。僕らも視聴者を信じて出すのですが、見る方も出す方が頑張っているのだろうということを信じる。そういう循環が必要だと思います。

尊敬するジャーナリストたち─ ①丸山鉄雄

戦後、今日より明日に希望を持っていた頃は、今より明るかったと思います。おかしなことがあってもおかしなことと言うことができました。NHKのラジオに「日曜娯楽版」という番組がありましたけれども、言いたいことを自由に言う番組で僕の大好きな番組でずっと聞いていましたが、あれがなくなったのは、造船疑獄で起訴された佐藤栄作を犬養健法務大臣が重要法案(防衛庁設置法案と自衛隊法案)の審議中を理由に指揮権を発動して、検事総長に逮捕中止を指示した事件の時、日曜娯楽版が「飼い犬に手を噛まれた」などというようなコントをたくさん流して、自民党から文句が出て中止になったのですが、文句が出るときは大体受信料の値上げの時で、「こんな放送をしているなら考えなければいけない」ということになって、いつの間にかなくなりました。風刺は「じょうだん音楽」で再生しましたけれども、今は風刺番組は消えていますね。
「日曜娯楽版」のディレクターは丸山鉄雄さんという方で、その方の弟さんが丸山真男さんで、日本の政治思想史の研究者で、東京大学の先生でした。私は丸山先生の教え子だったのです。
私はNHKの現場に30年いましたけれど、外で見るほど現場はヤワではありません。どこにもきちっと考えて志を持った記者がいます。もちろんそうでない人もいます。どこの組織もそうですがNHKにも、きちっとものを考える記者はいるのです。

尊敬するジャーナリストたち─②エド・マロー

 私が尊敬しているジャーナリストの一人に、アメリカのジャーナリストで、エド・マローという人がいます。『やむ得ない事情により』という翻訳本がマロ-のことを書いています。早川出版から出ています。「日曜娯楽版」が潰された年、マローはマッカーシストと戦ったのです。昭和24年に中国共産党が中国で勝利して政権を握ることになります。戦後の冷戦が始まっている中で、中国を失ったのは誰のせいかという話になってくるのです。それで「共産主義者の回し者」が中国の容共政策を取って、その結果中国は共産主義の国家になったとして、国会議員のマッカーシーが音頭を取ってアメリカ議会上院に「非米活動委員会」というのをつくります。そしてハリウッドのスターや軍人などを呼んできてつるし上げていくといったマッカーシズムが猛威を振るっていきます。その中でアメリカ全体のリベラルな空気がおかしくなっていきます。マローは放送の世界のスターだったのですが、その理由は戦争中にロンドンの空襲の戦火の中に立って、米国民に向けてラジオの中継放送を続けたのです。なぜかというと彼は第二次世界大戦へのアメリカの参戦を願っていたのです。ナチズムとアメリカが戦って欲しいと願って中継を続けたのです。そういう人気者のマローですが、彼は友人と組んでマッカーシーに関するドキュメンタリーを作り流すのです。マッカーシーがあちらこちらで演説をしたり、人を非難するのを取材して、その非難が本当に事実に適合しているのかどうかを一つ一つ裏を取っていくのです。そしてマッカーシーの主張は間違っていることを集積していって、その上である夜のドキュメンタリーを全部マッカーシーの話で埋めて放送し、最後に「ジュリアスシーザーをのさばらせているのは運命の星のせいではない」という言葉で締めくくったのでした。これだけのものを見て、まだみなさんはマッカーシズムを認めるのですか、これをはびこらせているのは、あなたがたのせいではないのか」と呼びかけたのです。嵐のような反響がありました。この時にCBSは宣伝をしませんでした。友人とマロー自身が自腹を切ってこの放送についての広告を新聞に載せたのでした。危険なことには会社の幹部は携わらないのです。マッカーシーは怒り狂って自分で作った放送をするのですが、これはしどろもどろで、かえって自滅するのです。こうやってマッカーシズムを沈めることができたのでした。ところがそれから何年か経ってマローはCBSを辞めます。会社と衝突して辞めるのです。アメリカの国家予算の問題で重要な会議を中継をしようとしたら、幹部がそれを拒否したのです。拒否して昔流したショー番組を再放送しようとした。その方が金になるからです。彼はそれに抗議してCBSを辞めるわけです。辞めた後で、放送問題を考える全国大会で、テレビについて「テレビは人々を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を持っている。それはあくまでも人間社会がこの箱をそのような目的に使おうと自覚した場合の可能性である。そうでなければテレビはワイヤーと光の詰まった箱に過ぎない。」という有名なスピーチを残しました。その通りだ、テレビをそのようにしては絶対にいけないとマローの本を読んだときに誓いました。
 もう一つ思ったのは日本の戦争中の歴史、使い方を間違えれば単なるワイヤーと光の詰まった箱ではなくて、権力者が使う凶器にもなり得ると、これは新聞もそうですが、そういう経験を日本はしているではないか。仲間内とはことあるごとにそういう話をしながら後輩の教育をやってきました。後輩もまたその後輩を教育していくでしょう。                                      文責小沼