29号 2010年6月発行

 

        青春時代 恋もせず 戦争に加担した少女のおもい   
            
               小岩 昌子(ねりま九条の会 世話人)

   私は練馬生まれの練馬育ち、自称練馬人です。うまれた頃は下練馬村と言われ、牛車が石ころ道をガタガタ通っていきました。森と畑に囲まれ、農家の納屋に潜り込み、蛇に出会ったり、学校は田畑の間を流れる小川の道をランドセルをカタカタさせて通りました。田園風景に囲まれ、引っ込み思案の私はのんびりと平和でした。
しかし、年表を繰ってみますと、私が生まれた頃は世界恐慌、満州事変、上海事変、226事件と不穏な空気が流れました。1937年には盧溝橋事件が起こり、日中戦争が開始されました。しかし小学校低学年だった病弱な私はのん気でした。小学校に勤めていた父は「大変なことになる」と言いながら、戦争から我が子を守ろうとしていました。学校の子どもたちとはどうかかわっていたのでしょうか、小日向台町の坂の荷車押しをすると一銭貰えるとか、欲しい布の手提げを買えなくて盗ってしまった女の子の話などをしてくれたことがあります。お屋敷町にもあった貧困や格差、そして天皇制や平等などを考え教員をしていました。(後で聞いた話ですが)
 日中戦争は激しくなり、教育も一変、考える学習は消え、暗記・命令・訓練に明け暮れました。
 太平洋戦争が始まり、学業はもっと遠くなり、練馬のあちこちに爆弾が落とされ、10メートルもの大穴をあけ、恐怖と空腹を残していきました。女学校での学業は名ばかりで学徒動員という名のもと、工場に動員されました。私は殺人兵器だった風船爆弾づくりに昼夜励みました。
  国家総動員法が公布され、兵士を産み育てることを強要された母親は、子育てをしながら出征兵士を送り、遺骨を迎え、食料集めに、そして国防婦人会の一員として昼夜休むことなく走り回っていました。戦地に送られる男性達、戦場となった沖縄、原爆投下の広島・長崎、焼け野原の町々と浮浪者、浮浪児たち、私が体験した日本の戦争姿です。
  放送される戦果は「勇敢に戦いました」「敵機墜落、撃沈」と勝利のニュースばかりでした。何も知らされぬまま負け戦に加担し、「神風と勝利」を信じ、その空虚さは今なお、生き方の中に影を落としています。
  戦争はしない。憲法九条を守り育て、平和一筋に歩んで行きたいと思っています。このおもいを、ねりま文化の会と武蔵大の先生と学生たちがDVDにまとめてくれました。

 

   ねりま九条の会「5周年記念の集い」に1000人参加
    ─「生かそう憲法 広げよう9条 とめよう戦争」─

                  

  ねりま九条の会5周年記念1500人のつど い「生かそう憲法 広げよう9条 とめよう戦争」を、6月13日、練馬文化センター大ホー ルで開催した。「ぞう列車がやってきた」合唱で幕を開け、 松元ヒロさんの一人コント、品川正治さんの記念講演に、参加者は、笑いと涙、感動の余韻に包まれた。戦争の真の恐さを知る人
の話は重く、会場は水を打ったように静まり返った。松元ヒロさんのベネズエラの釣り人の小話、アメリカ国歌に載せた君が代には大爆笑。「憲法君はまだ64歳、年金も出てない、これからもがんばって」には大拍手。ぞう列車を歌う練馬の会は、ねりま九条の会の呼びかけにこたえて発足、掛川陽子さんの指導の下2月から特訓を重ね、杉並合唱団の応援も得て80人の大合唱。ママに抱かれ寝ていた3歳児が、自分の番が来ると目を覚まして大きな声で叫ぶものだから爆笑また爆笑。今回は品川さんが経済同友会終身幹事ということもあって、これまでの申し入れ先に加え、経営者への申し入れや、日経新聞への折込、板橋、豊島、西東京市の労組や9条の会などにも働きかけてきた。こうした努力の結果が1000人参加となった。

 

品川正治さん講演より

 

心に刻まれた京都三高(現京都大学)の心遣い
 私は1924年、大正13年生れで、今年86歳です。神戸の生まれです。小学校に入学した年に満州事変が始まり、中学のときには日中戦争、京都の三高に入りましたときには、すでに太平洋戦争が始まっておりました。それまでは学生には徴兵猶予があったのですが、私が入ったときから徴兵猶予がなくなりました。先生方は授業の終わりには、学生たちに対して深々とお辞儀をするようになりました。最後の方では、通常の授業をやめ、かわりに学生の希望を募って、学生が望む先生の授業を受けられるようになりました。その中でどうしても忘れることができない授業があります。三好達治という詩人の授業ですが、三好先生は最後の授業が終わった時、「若い君たちを死なして、俺が詩をつくれるか」そうおっしゃって演壇につかまって号泣されたのです。この記憶は今でも心に焼き付いています。

最前線の戦闘の中で
 学生生活の半ばでついに召集令状がきて、2週間鳥取の連隊にいた後に戦地に行かされました。北支の部隊ですが、どこに行くかも知らされることもなく、共産軍の本拠地に近い最も戦闘の激しい地域に行かされました。二等兵です。身体に12発の手りゅう弾を巻き付けて、それを擲弾筒という武器を通じて敵地に打ち込むのが私の仕事でしたが、擲弾筒を撃ち込む隙さえなく、いきなり迫撃戦を経験したことが2度ございます。私は敵の迫撃砲弾の直撃を受けて、その場で倒れ、5時間も意識を失っていました。足にはその時の破片が残っています。
 しかし、私はその話は誰にもしませんでした。南方で戦死された方の7割は餓死で、敵の弾に当たって死んだ方は2割に過ぎません。餓死することは大変辛いことです。体力もマラリアなどで失って気力もなくなって、
「もうここで俺を放っておいてくれ、さらばだ」そう言って地面にうずくまったその日をその人の戦死の日とし、別れた場所をその人の戦死の場所とするのです。また、玉砕した島では、勝つ望みもなくいつ玉砕するかという状況に置かれながら、兵士たちは戦闘を続けておられたのです。それに比べて私の戦地は最も激しい戦闘地だったと言われておりますが、まだ、私たちの方がと思うと、おこがましくて言えませんでした。

戦争が残した「トラウマ」を抱えて
 戦争体験者は戦争の話をされないのが普通だと思います。トラウマを抱えながら六十余年を生きていた人たちに、今それを言えといっても言えないのです。私自身も非常に辛いトラウマを抱えております。私たちの部隊は攻撃目標とされ、迫撃砲や機関銃の照射を激しく受けたことがありました。私の入っていた壕から十数メートルしか離れていない壕に、私の戦友が入って戦闘に参加しておりましたが、「やられた。助けてくれ」という叫び声を上げて、それに続いて私の名前を連呼するのです。「品川、品川、品川・・・」と。私は本能的に自分の壕を飛び出そうとしました。しかしもう一人の戦友が、私が飛び出そうとするのを馬乗りになって押さえ、「今
お前が出ればお前が殺される」と口では言わずに、ただ首を左右に振っている。そのうちに私の名前を呼ぶ
声が小さくなりとぎれてしまった。私はそのことを忘れることができないのです。あの激しい戦闘地域のこ
とを思うと、その事実ばかりが私の中に甦ってくるのです。
 ところが、戦後、私は東京大学の学生として東京に下宿しておりましたが、その下宿先に島根県の山奥の部落から、亡くなった戦友の母親が訪ねてこられたのです。村役場は必死になって私の下宿を探してくれて、また村の人は東京までの往復の切符を手に入れてくれたそうです。しかし私は面を上げることさえできませんでした。そのお母さんとは3日間私の下宿でいっしょに暮らしました。
 一昨年になりますが、松江で今日のような大きな大会がありました。話をする前に主催者から「今日は思いもかけない遠い村から、バスを三台も連ねて参加してくれた人たちがいますが、何か心当たりはございますか」と聞かれて、とっさにその戦友の村の人だろうと思いました。演壇に上がると案の定、ある一角に私の過去の戦友だった人が一人いました。間違いなしにその村の人たちでした。私はそちらの方に手をついて謝りました。村の人たちは私の謝りを聞いて激しく泣き出だされたのです。その泣き声は会場全体に伝わってしまい、会場の人もみな泣き出したのです。それが、私が長い間背負ってきたトラウマが幾分なりと消えた瞬間でございました。それ以後、私は自分の戦争体験を申し上げることができるようになりました。

憲法9条に出会う
 俘虜生活の後、終戦の翌年の5月1日、メーデーの日に私たちは復員しました。遠くの部隊から先に上陸させさせるため、私たちは三日間船に停泊していました。そこへ、民家から借りてきたよれよれの新聞が、一箇中隊宛一枚づつ配られました。それが「日本国憲法全文」だったのです。私は隊長の命令で、大きな声で読みはじめましたが、九条を読み上げた途端に全員が声を上げて泣き出したのです。よもや成文憲法で、ここまで書いてくれたとは、これなら死んだ戦友の霊も浮かばれるし、また猛烈な被害を与えた中国をはじめアジアの国に対しても、これから日本は戦争をしないのだと、胸を張って言える。よくぞここまで書いてくれたという思いでした。このような出会いをした男が今の憲法に対する思いが違うのは当たり前なんです。

戦争を起こすのも人間、とめることができるのも人間、人間の目で戦争を、憲法を、そして経済を見よう!
 今だからこそみなさんに言わないといけない、誰がこの国を戦争のできる国にしようとしているのか、みなさん方は容易に見分けがつく筈です。私はどっちなのか、この座標軸を是非持ってもらいたい。これが私の話の一つの主眼です。
 日本国の権力を握っておった為政者は、ただの一度もこの国を戦争のできない国にしようとしたことがない。しかし、国民の気持ちを考えれば憲法は変えられない。そこで解釈改憲と称して今の憲法を変えなくても戦争はやれるという格好でやってきた。それが、自衛隊であり、有事立法であり、特別措置法であり、ついにイラクにまで陸上自衛隊を出し、ソマリア、インド洋には海上自衛隊を出した。その意味では旗はぼろぼろです。しかし、旗竿は国民が握って放していません。これが大きいのです。また、どうしてもみなさん方に申し上げておきたいのは、経済も人間の目で見てほしいということです。現実は戦争や経済を国家の目でみるどころか、国家でさえ撹乱されてしまう、そういう金融資本の市場原理が世界全体の傾向になってきました。
 リーマンブラザーズの破綻によって、アメリカ人でさえ知らなかったアメリカ型の資本主義の実態が国民の目の前に明らかにされました。アメリカの上位500社の社長の給料は平均労働者の430倍です。また金融資本を支えているファンドマネージャーの報酬は、何と平均労働者の19000倍です。平均がですよ。これはアメリカ人でさえ知らなかったのです。日本とアメリカとは価値観が一緒だとこれを一番広く宣伝してきたのがマスコミです。リーマンブラザーズ破綻の翌日、AIGというアメリカの保険会社が潰れかけて救済されました。潰せないのです。これも日本の新聞もアメリカの新聞も書きませんが、AIGというのは軍産複合体の中央に座っているのです。そこの保険を引き受けているからです。だから潰せないのです。アメリカと日本とは違う。価値観が違う。なぜそれを言えないのか。
 日本は「武器輸出三原則」を持っています。しかし、基地を持たせているのは最大の武器輸出です。それらが全部明るみでたのが今なのです。あれだけ基地を自由に使わせ、ベトナムでは沖縄を悪魔の島と呼んでいます。それほど沖縄の人に気の毒なことがあるかと、これが現実に全部知らされてきたのです。それで普天間の問題もここまで大きな問題になってきているわけなのです。「日本とアメリカは価値観が違います」と言うべきです。核の傘に入ったままで、それを弱めないでくれと頼んでおいて、世界の核を廃絶するなんていうのが日本だ。こんなことを私は恥ずかしくて言えないです。「核の傘は要りません。」はっきりそう言う以外に核の問題に関して発言できる筈はないのです。北朝鮮が核を使うかもしれない。しかし、世界中で北朝鮮ほど核のことで悩まされた国はないのです。周り全部が核武装国、あるいは核の傘に入っている。北朝鮮だけがなかった。そういう事実は一切知らされない。GNPで言えば足立区といっしょなんです。その国を経済封鎖するなんてことは、後の時代の歴史から、あるいは国民にとって、あの時の日本人は気が狂っていたんではないかと逆に言われる心配さえあります。どうしてそんな小さな国を痛めつけるのか、本当に憲法9条を持っている国として経済も人間の目で見る、そのためにはすべて「アメリカと日本とは価値観が違います」とひとこと言ってしまえば、日本の選択肢はものすごく増えるのです。
 それを言えるのは主権者としてのみなさん方だけです。政治頼み、行政頼み、外交官頼みでは駄目です。みなさん方がはっきりと「NO!」と言ってしまえば、アメリカは世界戦略を変えざるを得ない。アメリカが世界戦略を変えると世界史が変わるんですよ。それは日本の主権者のみなさん方の一挙一動にかかっているのです。こんなことは日本史では初めてですよ。世界史が変わるという、その結節点に日本の国民がいる。今日私は、それをみなさん方に訴えたくて参りました。

 

講演の感想より

・衝撃的なお話でした。・思春期の経験や体験が人に大きな、決定的な
 影響を与えることがよくわかりました。・経済の病巣を明確に浮かび上が
 らせてくださいました。

・「国家の眼ではなく、人間の眼で戦争を、経済を観よ」という考え方に
 眼からウロコが落ちた感じで感激した。

・9条のみに眼を向けていては9条を守れない。日本の特徴はアメリカと
 異なることを明確にされ、今後の運動の目標が明らかになった。

・品川さんの体験話に涙が込み上げ、そしてそのトラウマを越えて語りかけ
 てくださる気迫に、真実を通した訴えの強さに、新たに9条を守ろうという気持ちを強く持った。

・「国民目線の日本国憲法、国民目線の経済視点から、米国との価値観の違いを主張し、基地撤去をする
 ことは、米国を変え、世界史を変えることになる」という話に感銘を受けた。

・主権者である私たちが世界史を、アメリカのやり方を変えられるというお話はとても重かったです。もっと勉
 強をしなければと思いました。

 

※2010年度、2009年度の会費の納入をお願いします。各1000円です。
 未納の方には振替用紙をお入れしています。

 

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