33号 2011年2月発行

〈1面〉

       歌と旗の季節に憲法を読み直す

                                                                         堤 園子(羽沢在住)

   朝日新聞の「声」欄に最近二つの投書が載りました。一九四五年の敗戦時一四歳の方と六歳の方です。戦後の黒塗り教科書でにわか仕込みの民主主義や平和憲法を学ばれた世代です。
 「日の丸に向かっての敬礼や君が代斉唱・伴奏を強制し、思想・信条の自由に基づいて従わなかった教師たちへの処罰を次々行ってきた」として、都教育委員会に対し、都立高校の先生方が訴訟を起こしました。その控訴審で、一審判決をくつがえし、1月28日、都教委の現行方針を容認する判決が出されました。
 お二人は、この判決に対し大きな危惧と怒りを感じられて投書されたものです。「2006年の教育基本法改正で愛国心が教育の目標とされ、戦前戦中のように国旗国歌の遵守をテコに教職員や子どもたちが萎縮し、思考停止に追いやられるならば…日本はいっそう地盤低下するばかり」「控訴審判決は国が決めたことには何でも服従、逆らえない人々をつくる土壌をつくる」「上から言われたら、嫌なことでも自分の意思に反しても、やらなければせられる恐ろしい社会が出現する」と異口同音に危機感を表明されています。お二人の長い人生経験からこのような考えに到達されたのでしょうが、考え方の基礎には幼少期の体験と戦後教育が生きているのではと思い、初等中等教育を担う先生たちの自由闊達な教育活動が保証されることの大切さを改めて感じました。
 平成11年、小渕内閣の時、国旗国歌法が成立。担当大臣は「単なる法制化で、国民を強制するものではない」と説明していたことを私ははっきり覚えています。2月9日、教職員側は東京高裁の逆転判決を不服として最高裁に上告しました。
 ドイツには普通の裁判所の他に憲法裁判所が設けられています。二度の大戦を引き起こした反省からこれをもうけたのでしょうか、日本にもあればいいのにと思いながら憲法手帳を見直したところ、ちゃんとそのような条文があり、自らの不勉強ぶりを羞じました [違憲審査制]第81条には、
 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するかないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と書いてあります。しかし、現状は“違憲審査制”の役割を果たしているとはとても思えません。
 最高法規[憲法尊重擁護の義務]  第九十九条には、
 「天皇…及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う。」と書いてあります。
 私たちは彼らがこの義務に忠実であるかどうかを“不断の努力”を以て見守り、これを維持することを求め続ける責務を負っているのです。(ねりま九条の会 会員)

 

〈2面〜3面〉

                              早坂 暁氏講演会 「今を語る」より

2月5日、貫井・富士見台・向山・中村地域を対象として、貫井九条の会とおりづる九条の会、地域のみなさんとねりま九条の会が実行委員会をつくり、 「 夢千代日記」「花へんろ」「華日記」 などの作品で知られる早坂暁氏をお迎えして講演会を開催しました。
 会場は中村橋のサンライフ練馬、当日の参加者は98人でした。
 早坂氏はさまざまな病気を抱えておられ、しかも82歳というご
高齢にもかかわらず、2時間近くを立ちっ放しで戦争と平和への想いを語られました。文学者の感性で捉えた歴史観や平和観が新鮮な魅力を放つ講演会でした。

◆戦艦大和の運命
 私は愛媛県の松山中学で軍国教育を受けていたので、どうせ行くなら海軍だと海軍兵学校に入学しました。15歳でした。ところが入学してまもなく、おまえたちの乗る軍艦はないと言われたのです。戦艦大和に乗りたくて海軍兵学校に入ったのに、不沈戦艦と信じていた大和が沈んだと聞き、ぼうぜんとしました。
 戦艦大和は飛距離20000メートルを誇る大砲を搭載し、魚雷で一部が損傷しても船体が傾くことを防ぐ装置を持つ、世界一の戦艦としてつくられたのですが、日本の近海には無数の潜水艇が待機し、上空には数多くの飛行機が見張る中ではなかなか出撃できないでいました。しかし「一億特攻の先駆けとなれ」という上からの命令で、仕方なく敵艦の群がる海に出ていき、日本近海で撃沈されることになりました。ばく大な税金を投入して8年の歳月を費やしてつくられた戦艦大和の最後でした。

◆国の宝は領土ではない
 大和に出された命令「一億特攻」とはとんでもない話です。一億人が玉砕してこの島だけ残っても、土地だけが残っても国とは言えません。人こそが宝なのです。
 しかし、日本では手柄を挙げた武将への報償として領土を与えて来た歴史があり、領土獲得という野望から離れることができないのです。
 帝国主義時代の西洋先進国では、他国を攻め落として植民地にはしても、そこからは利益を吸い取るだけで、その国に住民が移り住むということはありません。ところが日本では、豊臣秀吉の朝鮮出兵も、朝鮮や明国の土地を取り上げて武将への報償にしようという考えから出発しているように、領土への執着が強いのです。
 満州では、イギリスの東インド会社にならって国策会社「満鉄」の経営に乗り出しますが、陸軍は国ごと自国のものにすることを企み、張作霖を爆破し、満州国をでっち上げてしまいますね。中国が国連に訴え、国連の場で、満州は中国の領土だから返すように言われた時、松岡大使は「満州は日本の生命線。満州に移民した多くの日本人を守るために軍隊は必要」と言い張ります。中国は「満州は中国の領土、中国の領土に生命線のある国はどういう国か」と反発。答えにつまった松岡大使は国際連盟を脱退してしまいます。軍に政治のエンジンを奪われた国はいずれは滅びます。

◆日本は中国にも負けた
 日本人は、日本はアメリカには負けたが中国に負けたとは思っていませんが、そうではありません。
 日本は相手国の首都を落とせば戦争に勝つと思っていました。日本国内の戦争では、ひとつのクニを滅ぼすということはその中心的な町、首都を落とせばよかったわけですが、中国ではそうはいかない。日本軍は上海に上陸し、首都であった南京を占領しますが、中国側は首都を漢口に移転し、そこを占領したら重慶に遷すというように首都機能が移動してしまうので、日本はどんどん泥沼にはまっていきました。日本は中国大陸の大きさに負けてしまったのです。

◆「押しつけ憲法」なんてとんでもない
 日本の憲法は進駐軍からの押しつけ憲法という人たちがいますがそれは違います。憲法は日本だけでも1000万にもの人が死傷して、その結果「もう戦わない」ということに辿り着いて手に入れたものなのです。でも未だに押しつけられた憲法だという人がいますね。核を持つべきだという人もいます。日本が核を持ったら戦争で死んだ人たちは浮かばれません。戦争はしないというのは弱腰なのではない、実にりんとした考え方です。平和バンザイといっていると平和がやって来る訳ではありません。命がけで闘わないと平和はきません。

◆「和を以て貴しと為す」が九条の原点
 何百年も前、日本には「戦争はしない」という憲法がありました。日本は単一民族ではありません。アメリカと同じよ
うに雑多な民族が移民してきてつくられた国です。国をつくり上げていく過程で、覇権をめぐって戦争ばかりしていました。5世紀、聖徳太子は国をひとつにするために、17条憲法を制定しますが、その第一条は「和を以て貴しと為す」なのです。つまり「戦争はしてはならない」という憲法です。私たちは日本人の血の中に流れている「和を以て貴しと為す」という伝統に誇りを持つべきです。
 日本には南の民族の太陽神と北の民族の拝火教などがありましたが、聖徳太子は朝鮮半島から来た曽我氏がもたらした仏教を取り入れます。しかし朝廷は神道の伝統を通します。そこが日本の面白さで、単一宗教ではない良さがあると思います。天孫降臨という発想も面白いですね。南から来たのでも北から来たのでない。天から来たのだというわけです。知恵者がいたのですね。

◆アメリカの核の傘の外に出よう
 原爆を持ってしまった人類は戦争をしてはいけません。原爆の影響は三世代に及ぶのです。被爆をした人の孫達にも遺伝子の異常が見られるということが、最近の研究でわかっています。今アメリカでも核兵器が人類を絶滅させる兵器であることがわかってきて驚いています。ハーグの国際司法裁判所でも「核は人道にもとる兵器である」と認定しました。しかし、それには附則がついていて、「国家存亡の危機にあるときはこの使用は当裁判所は判断しない」というのです。しかし、この「国家存亡の危機」というのは問題で、私たちは異議を唱えています。
 戦争には必ず大義があります。北朝鮮がミサイルを打ち込む恐れがあると言う人がいますが、その大義は何ですか?「経済封鎖をするから」とか「援助をしてくれないから」などという理由で本当にミサイルを打ってきたとしたら、北朝鮮は韓国からもアメリカからも攻撃されて、アメリカは核の使用も考えているようですから、もうこの国はなくなり、土地が残るだけになります。そんなことは北朝鮮の指導者の望むところではない筈です。北朝鮮には日本にミサイルを打ち込む大義はないのです。日本は麻薬などが持ち込まれないために、海岸を警備していればいいのです。それには軍艦は必要ありません。核の傘も必要ありません。アメリカの核の傘に入ったまま、核廃絶などというのもおかしなものです。

◆「長寿国」のシステムに誇りを持とう
 食べ物の安全性、医療制度、環境保全への対応、そして憲法九条を持ち、長い間戦争をしないできたことを日本は誇っていいのです。こうしたシステムのおかげで、日本では年寄りが元気で長生きをしているということを世界に伝えていきましょう。

       
区内九条の会のとりくみ

韓国併合100周年によせて ─朝鮮の博物館をめぐるツアーのご報告─

東ねりま九条の会は、2010年12月15日「朝鮮の博物館を見て朝鮮料理を食べようツアー」を行いました。
 当日は、天候にも恵まれて10人以上の参加者が朝10時から集まり、最初の「在日韓人歴史資料館」を訪ねました。歴史資料館では、在日が日本へ渡航した事情、当時の生活実態、権益擁護運動、民族教育、文化・芸術活動などの各種資料を整理して、展示してありました。館員の説明を聞きながら、当時の苦難の歴史、生活の実態を見て、日本と朝鮮半島との絆の深さが読み取れました。特別企画展は「関東大震災時の朝鮮人虐殺と国家・民衆」というタイトルでしたが、東京を中心として各地で朝鮮人の虐殺が行われ、しかも、まだ実態 が正確につかまれないまま、また 政府が責任を認め ないまま、時が過ぎていることに怒りを覚えました。
昼食は大久保の朝鮮料理の「大使館」でした。これから訪ねる「高麗博物館」の名誉館長である宋富子さんが一緒に会席され、高麗博物館の設立から、昨年オープンした「文化センター」の状況について話をしてくださいました。
 高麗博物館は、今年2月末まで、「韓国併合100年と在日韓国朝鮮人-1945年まで-」の特別企画展を開いており、通常展とともに楽しませてもらいました。ここで、昨年完成した「文化センター」をエレベーターで上がり、見学しました。ここは、「韓国・朝鮮の図書館/在日と日本人の出会いの場」とうたっているだけあって、閲覧室には2500冊が開架されており、自由に閲覧できるようになっております。
 東ねりま九条の会のはじめてのツアーでしたが、実際を見ること、話を聞くことがいかに大事であることが良くわかったと同時に、九条を守っていくことが、「日韓併合100年」の「負の問題」を一歩でも解決していく道であることもわかりました。(東ねりま九条の会 森田彦一)