34号 2011年4月発行

〈1面〉

       銃より円匙

                                                                大内要三(豊玉在住ジャーナリスト)

  東京にいちばん近い津波被災地、千葉県旭市飯岡地区は私の生まれた町だ。ここにも大勢のボランティアと自衛隊が出て後片付けをしている。
 東北・関東大震災に際して、大規模震災災害派遣と原子力災害派遣の自衛隊行動命令が出た。約二三万の自衛隊のうち一〇万+予備自衛官が米軍と連携して被災地に入っている。支援物資運搬・遺体処理に加えて原発事故に対応する兵たちの献身的な働きには脱帽せざるをえないが、将たちの考えるところは別にあるようだ。
 米軍側では空母「ロナルド・レーガン」は三月一〇日までの米韓共同演習「キー・リゾルブ」を終えたのち、続く同「フォール・イーグル」演習への参加を蹴って一三日にはもう宮城県沖に現れ、艦載ヘリが救援物資運搬を始めた。北朝鮮崩壊を想定した五〇二九作戦計画のための演習が、日本でより実戦的に可能になったからだと思われる。同作戦計画六項目の第一は大量破壊兵器流出対応であり、第六は大規模災害対応だった。
 自衛隊が陸海空三軍を統括した統合任務部隊を仙台の陸上自衛隊東北方面総監部に設置し、防衛省中央指揮所の直轄としているのは、確かに合理的ではあるが、これは米軍との連携を強めるためでもある。同じ仙台駐屯地には日米共同調整所が置かれ、日に二回の協議で任務分担をしている。この態勢もまた、朝鮮有事を想定した周辺事態対処の読み替えだ。周辺事態法改正への動きがあるなかで、大震災は起こった。
 護憲勢力の奮闘がなければ、統一地方選で民主党ボロ負けの後、「挙国一致」内閣へと雪崩れていき、「非常時」のかけ声により戦後日本の憲法的秩序がまとめて棄てられる危険がある。自衛隊への視線が微妙なところだ。
 災害派遣は自衛隊の本来任務ではない。けれども、銃を持ってイラクやジブチや朝鮮半島に行くより、円匙(えんぴ、軍でのスコップの呼称)を持って被災地に行くことに生き甲斐を感じる―そういう、しごく当たり前の感想を兵たちに持ってもらうことが、いま大切なことなのではないか。

 

〈2面〜3面〉

                              「原爆・被爆者と憲法九条」 ━肥田先生に圧倒されて━

3月19日被爆医師、肥田舜太郎さんを招き講演会を開催しました。大泉北地域集会所が節電のため貸し出し停止となり、急きょ大泉教会のご好意で会場を確保し開催にこぎつけました。大泉教会、被爆者練馬の会、大泉生協病院、大泉九条の会、地元の方々とねりま九条の会が加わる実行委員会は短時日で宣伝をし、痛風を押してこられた肥田さんの熱い話に100人の参加者は圧倒されました。会場での被災者カンパは6万円を超えましたが、東京被団協を通じて送金することにしました。

私の8月6日
 私は28歳の現役の軍医として広島の陸軍病院におりました。この日の早朝に私は広島から6キロ地点にある戸坂村から孫娘の往診を頼まれて行っていました。8時15分、病院に戻る前に子どもに注射をして行こうと、注射器の針を上に向けた時に飛行機が見え、すぐその後に強い光で目がくらみました。間もなく、広島の上空にあたるところに大きな丸い火の輪ができました。そして火の輪の中心に白い雲が出てきてどんどん膨らんでいき、それがそのまま真っ赤な火の玉になって、目の前に太陽ができたような感じになりました。火の玉の上の方からは真っ白い雲がどんどん昇る。下の方は火柱が立っているように見えます。それが5色の光を放ってきれいにチカチカ光っている。そのうちに丘の向に、真っ黒な横に長い帯のような雲が顔を出したと思うと、丘を越えてこちらへなだれ落ちる。それが見る見るうちに渦を巻きながらやって来て、たちまち村の中に入ってきて、瓦屋根の家の瓦がパアーと吹き飛ばされ、薄黄色い雲なのか煙なのかわからないものが私のところまで来て、私はそのまま縁側から吹き飛ばされて家の中を飛びました。目の前に天井が見え、そのうちに麦わら屋根がどかーんと吹き上げられて青空が見えたことだけは覚えています。そして大きな仏壇に打ち付けられて、屋根にあった泥が落ちてきて子どもといっしょに泥に飲み込まれました。

直撃を受けた被爆者
 子どもを助け出し、病院に向かって自転車を飛ばして行くと、遠くの方に真っ黒けの、ちょうど人間くらいの高さの棒みたいなものがゆらゆら動いている。だんだん近づくとボロボロのものが身体から下がっている。だらりと出している手の前にもボロが下がっている。顔はお饅頭のように腫れ上がって目らしい穴が二つ開いていて、鼻がなく、耳のあたりまで口になっている。唇が腫れ上がっているのです。真っ黒けで。私の前で倒れてしまったので、脈をとろうとしたら触るところがない。赤剥けの状態なのです。ボロを着ているように見えたのは皮膚がはがれて垂れ下がっていたのでした。間もなく、痙攣を起こして動かなくなってしまいました。その内に同じような人がいっぱい来るのです。道いっぱいに。立っている人もいるし、いざっている人もいるし、這ってくる人もいる。みんな赤剥けのズルズルです。
 道が塞がっているので仕方なく、太田川に入って、川の縁を歩いて病院の500メートルぐらい手前の土手まで行って、そこから上がって市内に入ろうとしたら、その上に建っている家が燃えている。燃えている火の中から火だるまになった人が川に飛び降りるのです。川の中には何段にもなって死体が重なっている。そこにあとからあとから私の目の前で人が飛び込むのです。上流からも死体が流れて来ます。
 私は仕方なく村に戻ることにしました。村では大きな田舎の小学校の運動場に5000人ぐらいの人が横たわっていました。そこには軍医が4人ほどいたので、そこで仕事をする事にしましたが、仕事をするにしても、場所をつくらなければいけないので、死んでいる人を見つけて運び出し、空いた場所にテントを張ってもらって、治療をする段取りをしました。私が動かなくなった人の傍に行って、生きているか死んでいるかを確かめて、「この人駄目」と指示をするのを、村の人が担ぎ出すという仕事から始まったのです。残酷な仕事です。寝ている人は軍医が来たというので、治療してほしいという顔で私を睨むのです。でも目をそらして、動かなくなったところに行って指示をするのです。辛い思いをしました。 この人たちの症状がまるで診たことがないのです。瞼から血が出る、鼻から出る、口から出る。熱が出ているから扁桃腺が腫れているだろうと口を開けてみると、口の中は真っ黒で、腐っているのです。そして顔を向けてじっとしていられないくらい臭い。火傷していない健康な肌には紫色の斑点が出ている。最後に頭の毛が抜ける。そして死んでしまうのです。もう一つの被ばく
 本人は被爆をしていない。たまたま警察官をしていたために、動員されて翌日広島に入って、町の中で救援活動をやった。そして一段落して普通の警察官の仕事に戻る頃から身体がおかしくなって、お医者さんに行っても「病気ではない」と言われる。そのうちに寝たきりになってしまう。そしてどんなにいい先生にかかっても病気がわからない。それで死んで行く。どんな先生にも彼らの病名はわからない。死亡診断書の書きようがないので、仕方がないから、最後はみな心臓が弱りますから「急性心不全」という病名を付けて役場で扱ってもらう。私は半年ぐらいまでは、強引に原爆症という名前をつけたのです。ところがそれでは役場は受けつけなのです。「この病気は国際的に登録されていない。これでは法律の上で受け取る訳にいかないから法律の中にある病気を書いてくれ」と言うのです。「原爆で死んだのは間違いない」といくら言っても駄目でした。私はむしろ、直接被爆をしないで、翌日や3日後に広島に入って、今の医学ではわからない病気になって、失業するし、就職もあきらめる、結婚もできないというような不幸を背負った被爆者を、意識的に対応してきました。

核実験でわかった「内部被ばく」
 私はこの病気のことをアメリカの放射線科の医者の報告で知りました。アメリカは戦場で核爆弾を使用した後、何分で機関銃が撃てるかという実験を、生身の人間を使って行いました。兵士達は命令されて、演習場の放射能の煙の中に突撃したのです。兵士達はみんな被ばくしました。広島・長崎の被爆者と同じように初期被ばくを受けないで、後から落ちてきた埃を吸い込んで多くの兵士が‘ぶらぶら病’という病気になったのです。内部被ばくです。
 今、東電やマスメディアは「当面は心配ない」と言っていますね。それは嘘ではないのです。「でも何十年先のことはわかりません。」と本当は言わなければならないのです。
 放射線の粒は1mmの60億分の1です。それが体内に入り肺に行く、肺から肺胞という一番奥の細胞に入り込む。そこには毛細血管がきていて、血液が循環して戻ってくるのですが、そのどこかについてしまう。人間の身体は異物を排除する力があるので、入っても大便や小便や汗になって出て行く人もいますが、そのままそこに止まっていると、核分裂が起こり、強いエネルギーを持った放射性物質であるα線やβ線によって細胞の働きが狂わされて癌化し、人の寿命を縮めてしまうのです

核のゴミは子孫を苦しめる
 放射線を使うとゴミが出ます。そのゴミにはエネルギーが残っているのです。六ヶ所村に300mの穴を掘って、その中に丈夫な容器に入れて埋めておけば大丈夫だろうということではじめたところが、300年はその容器を持たせることができるとして、鋼鉄だろうが何だろうがどんな丈夫なものでも300年の間に容器自身が放射能にやられて駄目になるということがわかったのです。だからとにかく300年は目をつぶって置いておこう、その内に何とかなるだろうというのです。300年後みなさんの子孫の足下で容器が壊れて放射能が地下水にどんどん吸い込まれていく。子孫はそれを組み上げて飲まざるを得ないという状況になってしまうのです。
人権意識を我が身に問おう
 みなさん憲法違反をずーっとやっているんですよ、自分で。憲法違反の政府のやっていることを黙って見逃して、自分でも利用しているんです。本当に憲法を守るという事は、日本人が安心して地球上で、誰も不幸にならないで生き抜いていける国にすること。そういう国にする力は国民しかいないのだ。国民が頭ではわかっているけれども、今やるとちょっと具合が悪いからちょっと休んじゃえというふうになったら、せっかく会をつくっても死んだも同然になってしまう。少なくとも、この会が実際に日常行動を起こして運動をするのを世の中に見せる、こうならなければ九条を守る会の価値はないのです。

4面 

   

     生かそう憲法 輝け9条

                   今年も憲法の日の行事を盛り上げましょう!

ねりま九条の会練馬駅前リレートーク
     10:00~12:00   私の思いを語りましょう。参加を希望される方は事務局までご連絡ください。

大泉憲法9条フェスタ(平和を育む大泉九条の会)
      9:00〜    大泉学園南口通路で風船を手わたし!
     11:00~12:00  地域の方々の私のひとりごと リレートーク!

午後からは、2011年5・3憲法集会&銀座パレードに参加しましょう
日比谷公会堂 12:30開場 13:30開会(11時より入場整理券配付)

  スピーチ
  三宅晶子(千葉大教授) 伊藤千尋(ジャーナリスト) 福島みずほ(社民党頭首) 志位和夫(日本共産党委員長)  音楽 
  ヨシミツが奏でナビィが歌う生命の歌 寿「kotobuki]

銀座パレード 15:30出発

第14回ピースシアター 「ベトナムの記憶」
本当の戦争とは、元アメリカ海兵隊員アンドレ・ネルソンが語るベトナム戦争の最前線の記憶。 
米兵の死者5万8000人。
若者は、戦場でどのような経験ををしたのか。人を殺した兵士は、その後、どのような人生を生きてきたのか。
 
    日時   4月24日(日)午後2時開映
    場所   大泉学園 勤労福祉会館大会議室
 
    主催    平和を育む大泉9条の会  連絡先 小林(3923)3775