36号 2011年8月発行

〈1面〉

       炎暑八月の誓い

                      本庄慧一郎(作家)

 

 2011年3月11 日。希有な規模の天災が「原子力の平和利用」と、その「安全神話」という虚構と欺瞞を根こそぎ粉砕した。
 もともと「原子力の平和利用」の反対語は「原子力の戦争利用」だと思っていたから、てんから信用などしていなかったが。
 現在、巷には「身近な場所で手軽に使える」という惹句の「放射線測定器」が販売されている。
 かと思えば、価格2000万円ナリの「核シェルター」が商品としてあり、売りコトバは「家族五人が88日間暮らせる」である。
 とても許容し難いこんな「異常」がすでにもう、すんなり日常化しているのだ。

 テレビコメンテーターとして活躍する金子勝氏(慶応大学教授)の論文から引用する。
 放射能との闘いがはじまった。
 原子力安全・保安院によれば、福島第一原発事故で放出された放射性物質77万テラベクレル(テラは1兆)で、チェルノブイリの約一割程度だという。
 一見、事故が小さいとの印象を与える。だが、チェルノブイリの放出量は520万〜1400万テラベクレルと推計されており、広島型原爆約200個分にあたると考えると、実は、福島第一原発事故は広島型原爆二十個分もの放射性物質をまき散らしたことになる。
 人間の命と健康に影響がないはずはない。
(東京新聞7月26日付「論壇時評/放射能との闘い」)より。

 1997年、私は「核の20世紀/訴える世界のヒバクシャ」(平和博物館を作る会・日本原水爆被害者団体協議会刊。1998年度日本ジャーナリスト会議賞を受賞)というずっしりと分厚い写真集の文案作成のお手伝いをした。
 ヒロシマ・ナガサキを初め、世界の放射能被爆&被曝の記録写真の悲惨さと残酷さに、トコトンぶちのめされて寝込んでしまった。
 私は、1945年3月10日の東京大空襲の2、3日後、月のクレーター状の焼け跡とゴロゴロした黒コゲ死体と、さらに猛火に追われて運河に身を沈めた人々の焼(溺)死体の凄まじい惨状を見ている。
 しかも、その約一カ月後の4月13日には、私自身が命からがら逃げ惑う爆撃の恐怖を体験している。戦争という殺戮行為による惨劇・惨状に対する免疫などはない。
 戦後66年、「憲法九条」を基幹とする平和憲法の理念を遵守してきて、とにかく直接の戦争戦火を忌避してきた。しかし、現在、日本の国民は「放射能と闘わねばならない」といった窮地に追い込まれた。
 この破局しかない危機を、私たちは絶対是認することはできない。

 ─欺瞞のない真の平和のために、志を同じくする人たちと積極的に行動していきたい。「原子戦争においては勝利者はなく、敗北者だけがある」
シュバイツアー/フランスの医学者 
   (本名 望田市郎 http://www.mochi-well.com/)

 

〈2面〜3面〉


石巻救援レポート    大柳武彦(ねりま九条の会事務局長)

 

  7月6日から9日まで、宮城県石巻市の救援に参加してきました。足手まといになると言われながら、友人の実家を宿泊所にお借りすることで、やっと念願かないました。活動内容は、救援物資の仕分け、被災家屋の家具などの廃棄物の搬出や泥だし、仮設住宅と個人宅での要望の聞き取り調査、救援物資の無料配布でした。
 仮設住宅でのバザーは、トラック2台分の物資が30分でなくなりました。自立に向っているけれども、何もないところからのスタートで、鍋釜、箸、靴から何までそろえなければなりません。避難所では出るが、ここでは何も出ないのです。「物資も欲しいが現金が欲しい」と現実の生活に困っていました。
 被災家屋では1階の天袋に突き刺さった畳、天井押入れの衣装箱は3月11日の水が黒いカビになって異臭を放ち、おばあちゃんのすてきな着物も変色して何枚も捨てざるを得ませんでした。2~3センチメートルも積もった砂や泥、倒れた冷蔵庫の中身が腐リ、ガス台では豚汁の鍋が腐り、アルミの金色だけが光って印象的でした。とにかく臭く蝿が多いのです。個人の家はほとんど空き家、臭くて市の片づけを待っていられないため、人手がほしいと言います。住み続けるには断熱材と縁の下の泥を除去しないと臭くて住めません。修理に1千万かかると嘆いている人もいました。
 聞き取り調査では「東京からきました、行政は申請主義だから要望しないとやってくれないので、私たちが代わって要望を反映します。私たちで出来ることはすぐやります。できないことは行政に反映し、さらに出来ないことは国会で要求します。それは憲法で保障していることですから」と話しかけます。
 震災当日の話になると、皆さんトラウマを抱えています。「私は隣のお兄ちゃんに引っ張られて逃げて助かったけれど、その前に2軒先の兄には危険だから出ないようにと言ったため殺してしまった。津波を甘くみてた」と泣き出す人、畳ごと津波に押し上げられ、2階に上がって助かった人、自宅に死体が流れてきた人、トラックが突っ込んできた家など、それぞれが大変な体験を話してくれました。
 そして口々に、「地盤沈下で、建てられるのか、9月の都市計画でどうなるか心配」「高台の土地は5倍にも跳ね上がり払えない」「国が代替地を確保してほしい」「2年前に建てたばかり、またローンを組むのは大変」「港が修理できなく工場が再開できず仕事がない」「船が流され友人の世話になっている」などなど、切実な声が聞けました。
 訪問した人から「話を聞いてくれて有難う、元気になりました。また来てください。」と感謝され、大切なことはその人に寄り添って話を聴き、本人の解決意欲を引き出すことだと痛感しました。東京から4時間で行かれるところです。また行かねばと思っています。
 ボランティアを希望される方は、大柳までご連絡ください。

 

恐怖の戦争体験から今を考える          阿部信子(下石神井九条の会会員)  

 

 7月28日の毎日新聞で、2010年の平均寿命の記事が目につきました。女性は「86.89歳」、男性は「79.64歳」。高齢化してきた平均寿命に「平和」の二文字が重なりました。もうすぐ平均寿命に近づく私にとって、忘れることのできない戦争末期の死に直面した時のことがよみがえってきました。
 軍需工場(千葉県船橋)での体験 空襲警報のけたたましいサイレンのなか、友人と二人で慌てて外に出た直後、低空飛行の爆音。恐怖のあまりとっさに飛び込んだのはトウモロコシ畑。「ダ・ダ・ダー」という機銃掃射。危機一髪、命をとりとめることができま した。まもなく誰からともなく男子学生の死が伝わって来ました。しかし、翌日「死者はなく、誤報でした」というニュースが工場中に流されました。見え透いた情報操作。しかし、ただ、沈黙せざるをえない雰囲気だったことが今でも頭に残っています。ウソの情報操作は戦争中だけでなく、福島原発・放射線問題などにもずっと続いています。
 死を覚悟した軍国少女に教育された私の命は、寿命19歳で終わっていたと思うと、今更ながら恐ろしくなります。
「今では信じられないことですが、昭和20(1945)年の日本人男性の平均寿命は、たしか23.9歳でした。戦地では兵士たちが戦って死ぬ。(あとでわかったのですが、戦死者の3分の2が餓死でした)
内地では空襲で焼かれて死ぬ、病気になれば薬がないので助かる命も助からぬ、栄養不足の母親を持った乳児たちは栄養失調で死ぬ、そこで大勢が若死
したのです。女性の平均寿命も37.5歳だったはずです。」(井上ひさし氏の「子どもにつたえる日本国憲法」の〝はじめに〟から抜粋)
 1945年の男性の平均寿命の23.9歳という数字。その沈黙の数字に、人間が起こした戦争への怒りと憎しみを抑えることはできません。
 6月に、「下石神井九条の会第5回総会」が開かれました。最後に採択した「宣言」には、「改憲手続き法」が昨年5月に施行されたこと、「国民投票法制定」のこと、改憲の採択を「3分の2賛成」から「過半数賛成」にすること、つまり、憲法改悪、九条をないがしろにする危険な動きが大きくなっていることを明記しています。
 戦後66年、日本はまがりなりににも平和を維持してきました。しかし、もと来た道(戦争への道)に流され続けていると思えてなりません。
広島・長崎。そして福島の原発を体験した私たちは、核の脅威から命を守る─。再び平均寿命が、20代30代の時代にしてはいけないという思いを強くしています。

 

関東大震災の後に          野村米子(桜台在住・97歳)

     
 小学校では、「信じることと同じように、疑うことも大切なのだよ。わからないことがあったら、どんどん質問しなさい。先生は大歓迎する。」と教えられた。大正は短かったけれども良い時代だった。
 しかし、大正15年に女学校に入学すると、体育の時間に薙刀の訓練が始まっていた。英語の教師は退役の陸軍大佐だったからか、時々生徒たちを“皇国乙女”に仕向けようとした。「君たち戦争をどう思うか。戦争があって、それから平和になるのだ。だからけっして戦争を恐れてはいけない。」
 二学期に入ると、この先生は、「これから街へ行って、こんな星形のマークを捜して来なさい」と言う。生徒たちは街の中に散って行った。マークは意外にも簡単に発見できた。市内を疾走しているシボレー社の乗用車の後ろ、そして丸善インク瓶の蓋にも浮き彫りにされていた。生徒たちはとりあえずこの二つを報告した。
 「これは、ユダヤ人のシンボルマークなのだ。このマークのある会社は、ユダヤから資金を受けている。ユダヤ人は大金持ちだから、
その資力で、全世界を征服しようとしているのだ。」
生徒たちはぼんやりとした不安に包まれていった。
 もしも、関東の大地震があと10年遅かったら、大正のよき時代は、もっと大きく育っていたと私は思いたい。日本人の心に、深く奥行きを持たせてくれていたと思いたい。そして、震災からやっと逃れられた命を、多くの朝鮮の人の命を、罪もないのに殺させるような仕打ちはさせなかっただろうと。主義者と呼ばれていた人の命も…。 もしかすると、もう婦人参政権も持てるようになっていたかもしれない。起こしてしまったあの、満州事変も、婦人たちのパワーで、支那事変にまでは延長させはしなかったろう。
 ふとそう思うときがある。
今度の大震災と原発事故は、これからの歴史をどう変えて行くのだろうか…。

お知らせなど

来年度(24年度)の区立中学校の教科書決まる!

以上決定しました。課題となっていた「つくる会」の自由社・育鵬社版は採択されませんでした。

 

ねりま九条の会 2000人ポスター   作製の賛同金のお願い
 
6年前に作製した1000人ポスターもあせ、少なくなってきました。九条改憲の動きは決して衰えてはいません。そこで新しい2000人の名前を連ねたポスター作ることにしました。前回好評だったIMAGINEとちひろさんの絵を採用してリニュアールしました。賛同金は500円です。
会員の皆様は1000人ですが、知り合いの方にぜひともお声をかけていただけませんか。詳細は同封のデザインチラシをご覧下さい。募集締め切りは11月末、仕上がりは12月、発送は年内中を予定しています。申し込みは、払い込み用紙、封筒、FAXにてお願いします。

 

 「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会のおしらせ

日時 9月17日(土): 第1回上映 10:00より 第2回上映 13:30より
会場: 勤労福祉会館 多目的室

山口県の島に持ち上がった原発建設計画を巡る、28年来の住民による反対運動を追ったドキュメンタリー映画。原発や核兵器の問題提起で注目を集める鎌仲ひとみ監督の作品です。
おとな1000円、中学生以下500円
主催 原発を考える会
連絡先 「原発を考える会」 6760-9446 宮前

 

練馬北部地域での学習会の開催「大震災、原発を憲法から考える - 9条と25条を中心に -」

日時 10月15日(土)13 時30 分(13時開場 )
場所 早宮地域集会所(練馬区第3出張所2階)講師 小沢 隆一 (九条の会事務局次長・慈恵医大教授)
主催 平和台地域九条の会
協賛 新婦人くるみ班・ひまわり班・春日町班
連絡先 03-3550-8890 村木方 平和台九条の会


ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」上映会のおしらせ
 
日本の侵略行為によって弾圧や迫害を受けた朝鮮の人々の、命と民族の誇りを守るために命をかけてたたかった弁護士 布施辰治。
 韓国では「日本のシンドラー」とも呼ばれた男の感動のドキュメンタリー映画です。
 日時 9月11日(日) 1時より  第1回上映 /3 時より 主演の赤塚 真人さんと布施弁護士の孫の話/ 3 時 50 分より 第2回上映
 会場 練馬区役所 多目的ホール
チケット 前売り 800 円 当日 1000 円
主催 「弁護士 布施辰治」映画上映実行委員会 連絡先 森田彦一 ℡  03-3951-4276 /fax 03-3951-0616