66号 2016年4月発行

〈1〜3面〉

参議院選挙は憲法九条の存廃がかかった闘い    

                                                                                   

 九条の会が誕生して12年目になります。発足当初は九条を守る一点で政党に関係なく幅広く集まろうと呼びかけてきましたから、選挙は各人の自由でした。ところが、安倍政権が集団的自衛権の行使容認、安保法制を強行可決し、7月の参議院選挙の結果によっては明文改憲を行うと国会答弁するに至って、九条の存廃、九条の会の存立が問われてきました。しかも首相に全権をゆだねる緊急事態条項を書き加えるというのでは独裁政権を許すことになります。
 幸い市民の声に押されて野党が共闘し、安保法制の廃止と集団的自衛権の行使容認の閣議決定の撤回を共通の目標として、安倍政権を打倒する、国政選挙で現与党及びその補完勢力を少数に追い込む、国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う、という合意に達しました。
 この間練馬区内には一一の九条の会が町を単位に誕生し、三四の九条の会がこれでは死ぬに死ねないという思いで活発に運動し、二千万署名の全戸宣伝・訪問、手紙作戦や宣伝カー、映画上映、講演会などで地域に風を吹かせてきました。これを力にして、参議院選挙では安保法制に賛成した議員の落選運動、安倍政権の危険な狙いを暴露し、一八歳選挙権をはじめ「選挙に行こうよ」運動を起こしましょう。また同時に行われる可能性がある衆議院選挙においては候補者の一本化に向けて野党へ働きかけ、都議、区議会各会派などの協力を求め、地域における対話集会、学習会などを開催しましょう。また選挙が終わっても、引き続き政権を奪取するまで議員との連携を強めていく事が重要になってきます。
安倍自民党の目指す日本は、国民あっての国家でなく、国家あっての国民と、憲法の理念を戦前に後戻りさせるものです。結局アメリカと大企業への奉仕であって、国民一人ひとりの幸せを毛ほども考えてはいないことがはっきりしました。目に余る与党議員の金まみれ、嘘まみれ、女性蔑視、真っ黒な資料提出、国民無視を糾弾し、一人ひとりの国民に主権者としての行動を促し、数年に一回の国政選挙の機会を棄権しないよう呼び掛けていきましょう。
 最後にお願いです。五月三〇日(月)の「命どぅ宝、沖縄の祈り、沖縄のたたかい」は参議院選挙の総決起の場として沖縄に学び、オール練馬、オールジャパンの一大イベントにするつもりです。区外にも呼びかけていますが不十分です。どうぞ一人でも多く足をお運びいただきたく心よりお願い申し上げます。
                                                                  ねりま九条の会事務局長 大柳武彦

  2面  沖縄の戦後史年表    

1945年 アメリカ軍(米軍)が沖縄本島に上陸、88日間の沖縄戦で、県民の4人に1人が死亡。米軍が占領、ニミッツ告  により米軍政府が発足。
日本ポツダム宣言を受諾し降伏。
1946年 GHQ覚書により北緯30度以南が日本から分離。 沖縄群島で沖縄民政府が発足
1950年 朝鮮戦争勃発
1951年 サンフランシスコ講和条約調印、日米安保条約調印
1952年 サンフランシスコ講和条約発効。日本独立。琉 球政府発足。沖縄は日本から切り離されて米軍の下に
1953年 最初の土地接収通告
1954年 立法院が「軍用地処理に関する請願(土地四原則」を決議。アイゼンハワー大統領、一般教書 演説で沖縄の無期限保持を明言
1955年 6歳の少女が米兵に暴行され、殺される(由美子ちゃん事件)
1956年 「全沖縄土地を守る協議会」結成、島ぐるみ闘争へ発展
1957年 高等弁務官制となる
1959年 石川市(現うるま市)宮森小に米軍機墜落。児 童ら17人17死亡(後に更に一人死亡)
1963年 キャラウエイ高等弁務官、「自治神話論演説」を 行う
1966年 アンガー新高等弁務官就任式で平良修牧師の祈り「神よ、彼が最後の高等弁務官になりますように」
1969年 佐藤・ニクソン共同声明、「72年返還」決定
1970年 コザ市(現沖縄市)で、住民が米軍車両を次々と炎上させる「ゴザ暴動」発生
1972年 5月15日、沖縄返還。沖縄県知事選、屋良朝苗 が当選。通貨はドルから円に
1974年 那覇市で工事中に不発弾爆発。4人死亡、30人余が負傷
1975年 沖縄国際海洋博覧会が開催
1978年 「人は右、車は左」に交通方式変更
1982年 嘉手納基地の爆音訴訟、提訴
1989年 ひめゆり平和記念資料館が開館
1990年 日米合同委員会、沖縄米軍基地返還リストを発表 沖縄県知事選、太田昌秀が当選
1995年 首里城を復元
1995年 「平和の礎」完成。小学生の女の子が米海兵隊員ら3人に暴行される。太田知事、代理署名拒否を表明
1996年 普天間飛行場を5〜7年以内に全面返還を日米合意(県内に移すことが前提。その後、移転先に名護市辺野古が浮上)。SACO最終合意、沖縄米軍基地の整理縮小を明記
1999年 「普天間飛行場の移転に係る政府方針」が閣議決定。沖縄尚学が選抜高校野球で優勝
2000年 九州・沖縄サミット開催
2003年 イラク戦争開始。沖縄都市モノレールが開業
2004年 沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落
2010年 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に対し、国外・県外移設を求める県民大会」が開催。日米共同発表、辺野古移設合意(鳩山内閣総辞職)。尖閣諸島中国漁船衝突事件
2011年 東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故(炉心溶蝕)
2012年 オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会が開催
2013年 那覇防衛局、沖縄県に辺野古埋め立てを申請仲井眞知事、辺野古埋め立てを承認
2014年 辺野古で海底ボーリング調査が開始。沖縄県知事選、翁長雄志が当選
2015年 自衛隊配備の賛否を問う与那国島住民投票「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!」沖縄県民大会が開催
「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認手続きに関わる第三者委員会」が翁長知事 に検証結果報告書を提出、「法的瑕疵」を指摘
2016年 辺野古の埋め立て承認を翁長知事が取り消した措置を撤回するよう国が求めた代執行訴訟で、福岡 高裁那覇支部は和解案を提示、安倍政権は和解案を受け入れ、辺野古での工事を中断
 

 
  3面  緊急事態条項の実態は「内閣独裁条項」である    

 戦争放棄を謳った「九条廃棄」こそ「本丸」と位置づけながら、その策動が思うように進まない自民党が、昨今進めているのが、「改憲2段構え」戦術で、とりわけ大災害時に発動する「緊急事態条項」など各党が合意しやすい項目から改憲に着手する姿勢を打ち出したことは周知のとおりである。
 「緊急事態条項」の背景にある
「大災害と政治」をめぐっては、今から五四年前の一九六二年、五九年の伊勢湾台風を受け、災害対策を体系化した「災害対策基本法」の審議において問題になった歴史がある。法案には、災害時に国民の私権を制限する緊急政令の制定を内閣に認める「災害緊急事態」条項が盛り込まれ、これに対し社会党議員が「憲法は国会を経ない緊急事態を認めているのか」と問題にした。憲法の根幹を突いた指摘に自民党も無視できず、法案を成立させるに際に「災害緊急事態条項」を全文削除した。政府は、緊急政令で制限できる範囲を狭めたうえでこの条項を再度提出。参考人として呼ばれた三人の憲法学者がいずれも「合憲」と述べたことから、法案は委員会で全会一致で可決、そのまま成立した(朝日新聞3・14朝刊「社説」)。
 往時の自民党には「集団的自衛権」など「戦争と平和」に関してだけでなく、その他の問題についても一定程度「護憲」の精神を踏まえ、野党の意見も聴きながら国会運営を行っていたことをうかがうことができる。
 しかし、安倍政権に「護憲」の精神をみることはできない。「緊
急事態条項」を盛り込んだ「改憲迂回戦術」にしても、自民党の憲法改正草案が土台になっている。具体的な条文は省略するが、自民党の改憲草案の持つ「効果」について、木村草太首都大学東京大学院教授はこう指摘する。
 第一に、緊急事態の宣言中、内閣は「法律と同一の効力を有する政令を制定」できる。国会の充分な論議を経ずに、国民の権利を制限し、義務を設定でき、あるいは統治に関わる法律の内容の変更を内閣の権限でできる。
 第二に、予算の裏付けなしに、「財政上必要な支出その他の処分」を行うことができる。
 第三に、「地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」。地方自治を内閣の意思で制限でき、例えば首相の意に沿わない自治体の長に「辞任の指示」を出すような事態も考えられる。
 第四に、緊急事態中は、基本的人権の「保障」が解除され、「尊重」にとどまる。、内閣が「必要だ」と判断すれば報道の自由や土地収容などの財産権侵害にも歯止めがかからなくなるかもしれない。(以上、朝日新聞(WEB RONZA)から)
 そもそも、東日本大震災の際に破壊された家屋の残存物などの撤去が思うように進められなかったのは、自民党が主張するように、「緊急事態条項がなかったから」ではなく、大震災を経験した弁護士らが言うように「現行の法律が充分に使いこなせなかった」ことが原因である。(毎日新聞2・2)
 「大災害を改憲のダシ」にする安倍首相らの意図を、私たちは見破らなければならない。
                                                                                          勝山繁(「ねりま九条の会」事務局員)

   

  4面  1680人に感謝   

  今回の二〇〇〇万人署名運動は、あと二週間と終わりが近づきました。私の手元にお預かりした署名は一六八〇筆で、ほぼ終わりです。これは私が当初期待した筆数の二倍以上となり自分でも驚いています。ここで参考までに、今回の取組みの内容と成果と問題点を、一六八〇人の方々への感謝とともに報告させていただきます。
【取組の内容】
○年齢的に足腰不調につき、署名依頼お  手紙作戦とする。(身体を使わない で出来る)
○ 依頼相手は、旧勤務先、学校関係、その 他八三年間に形成された人間関係を網 羅する。但し、全く期待できない人は 除外する。
○ 第一弾として年賀状で予告する。
○ 私の取組の動機、目的、願いを個人的 に訴える私信としての依頼状をつくる。
○ 依頼状で、署名用紙を二枚、返信用封 筒のセット二一五通、二月一日発送。
【成果】
○ 返信一四〇名(六五%)筆数一六八筆 (一人平均一二筆)
○ 依頼への受身でなく、積極的協力者が 多く、署名用紙の追加請求も多かった。
○ 本人のみ署名という義理チョコ的な ものは極めて少なく。家族、親族、友 人、知人、隣近所住人、外国在住の子 どもなどすごい広がりが多い。
○ 本人だけでなく、奥さんが猛烈に活動 してくださり。女性署名を多く得られ たケースも稀ではない。
【問題点】
○ 三五名から返信なし(無視、無言の反 対・忘却)が残念。
○ 取組み方法から、必然的に全国区と なった。本当は各地域ごとに地域ジュー
 タン署名が望ましい。
おわりに
 期待以上に積極的に協力してくれた人が多く、また筆数の多さは現在の政治、経済、社会情勢に対する危機感を共有する人が多くいてくれることが見えたことがうれしく「最後の仕事」と宣言したが長生きしそうです。
 また来るべき国政選挙において政権与党に投票しないでもらえる人を少し増やすことが出来たのではないかと思っています。            
                                                                    比嘉 高(ねりま九条の会会員)