74号 2017年8月発行

〈1面〉

   立憲主義の基本         植野妙実子(中央大学教授)   

                                                                                   

 憲法は、国家の基本法であり最高法規である。憲法が最高法規である所以は、人権保障が書かれているからである。人権保障のためには権力を抑制する必要がある。権力の暴走を許せば、国民の権利は守られない。そのため日本では、三権分立という仕組みを通して権力は互いに抑制し合い、その結果国民の権利が守られることになっている。同時に、最高法規である憲法を権力に守らせる憲法保障という考え方も憲法はとっている。それは特に、違憲審査制という制度と憲法尊重擁護義務という考え方に現れている。違憲審査制とは、憲法八一条に定められているもので、裁判所が法律や命令などすべての国家行為が憲法に適合するかどうかを審査する権限をもっていることを指し、最高裁判所はその終審の裁判所である。ただし、具体的な争訟事件の裁判に際してその解決に必要な限りで付随的に審査を行うと、一般的には解されている。そこがネックと言われている。 憲法尊重擁護義務とは、九九条に定められているもので、天皇・国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員が、憲法を尊重し擁護すべきことを要求するものである。権力に携わる人々は憲法を尊重し護らなければならない。これが定められていることで、私たちは安心して国家運営を彼らに任せることができる。日本国憲法は第一〇章最高法規において、まず人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であることを確認し、侵すことのできない永久の権利として私たちに信託されたことを明らかにしている。次に憲法の最高法規性を確認し、この憲法に反するものは効力を有しないことを明言する。そして憲法尊重擁護義務が権力に携わる者にあることを示している。憲法尊重擁護義務は裁判官にも課されるが、憲法の最高法規性と相まって、それを具体的に確保する制度として違憲審査制度を設けている。
 二〇一七年五月三日 安倍首相は突如、九条一項・二項を残しつつ、自衛隊の存在を明文で書き込む、、高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとする、とこれまでの自民党の日本国憲法改正草案には全くなかったことを述べ、さらに二〇二〇年を新しい憲法が施行される年にする、とした。首相が、民間の憲法改正推進団体において積極的に憲法改正を語ることは許されるのか。九九条の憲法尊重擁護義務に反することである。憲法を尊重しない首相に国政を任せることはできない。この提案は内容的にも納得できないが手続的にもおかしい。九条二項の「戦力の不保持・交戦権の否認」と自衛隊の存在を適合的に書くことなど不可能である。どちらかが死文化する。また高等教育の無償化は、必要性のない改正である。「無償化」の範囲も問題で、財源もないまま書けば、これもまた当初から守られない条文となる。二〇二〇年と改正の期限を区切るとはもってのほかである。首相の発言は憲法の存在そのものを貶めようとしているように私には見えるのである。

 

〈2〜5面〉                                       

特集 戦争を支えた「教育」と「治安維持法」

  「戦争を語り継ぐ」場合の多くは、太平洋戦争末期の被害体験であることが多く、太平洋戦争に至るまでのことが語られることは、ほとんどありません。しかし、明治維新によってつくられた天皇制国家が最初におこなったのは徴兵制でした。その後政府は、日清戦争・日露戦争を引き起こし、台湾と朝鮮を占領。続いて第一次世界大戦への参加、満州事変から日中戦争へと戦争に明け暮れ、多くの植民地の人々を巻き添えにして殺害します。太平洋戦争はその帰結として起こるわけですが、国内では、敗戦に至るまで「戦争を支える法律や思想」が、明治以来連綿と人々に押しつけられ続けました。
 編集部では、敗戦記念日特集として、今後の運動に生かすために、「教育勅語」や「治安維持法」が果たした役割を肌で知る人達に、原稿をお寄せいただくことにしました。

 

大日本帝国憲法と教育勅語があった時代      大島 美津子(元専修大学教授)

はじめに
 「明治は、国民が一丸となって独立と新しい国作りを目指して進んでいった希望の時代だった」、「大日本帝国憲法は、日本人自らが作り上げた素晴らしい憲法だ」とか言われることがある。果たして、明治という時代、大日本帝国憲法は、素晴らしかったのだろうか。戦前の社会を知る人たちが少なくなった今、私たちは、戦前賛美に対抗するために、その時代に生きることがどういうことだったかを思い返す必要があるだろう。

一、大日本帝国憲法が作られるまで 

★*在野の憲法草案  明治政府が、憲法制定の具体的準備をはじめたのは、憲法が大きな政治的争点となった明治一四年である。民権派は、国会開設請願とともに憲法草案作成を政治課題に取り上げていた。人は平等な権利と自由を持つ、不合理な政治や社会は人間の理性で変革しなければならないというルソーやミルに啓発された人々は、各地で人権を保障し、人民主権を掲げた憲法を作り始めていた(千葉卓三郎「五日市憲法」、植木枝盛「日本国国憲案」)。政府部内の大隈重信らも、イギリス流の議院内閣制を核とする憲法制定と国会の早期開設を主張していた。

*政府の憲法準備 これらの動きに衝撃を受けた政府首脳は、急きょ憲法の基本理念を決定した。憲法は天皇の命令で作る欽定憲法として天皇が国民に下賜する。政府は議会の政府ではなく、天皇の政府とし、大臣・官吏の任免権も天皇が握る。国会はイギリス流ではなく、プロシャ流とし、権限を狭く限る。国会が予算を否決した場合の対抗措置=施行予算制を確立するなどである。民権派や大隈らの憲法論に真っ向から対決する内容だった。
 政府は、翌一五年三月、伊藤博文をビスマルクの支配する新興ドイツ帝国に派遣した。憲法の内容、
その実地運用、議会制度、政府組
織、地方制度など、ドイツにおける国政全般の実情調査が命じられた。伊藤は、憲法学者グナイスト、モッセ,シュタインらの講義をうけ、欽定主義の重要性をたたき込まれた。シュタインは
 
「日本ノ天皇ハ民造物ニアラズ、天然ノ天皇ナルニヨリ国ヲ治ムルニ甚ダ安シ、政府ハ安心シテ民権党ナドノ多説ニ少シモ頓 着セズ、政府ノ意志明白ニ注意サヘスレバ宜シキコトナリ。仏ノナポレオン、腕力ヲ以テ皇帝トナッタノデ、マタ人民ニ腕力 デ亡ボサレタ、日本ノ国体ハ独墺ノ羨ム所ノ美国ナリ」

と述べたという。彼らから多くを学んだ伊藤は、憲法の制定をあくまでも皇室内の事業として秘密にし、衆議によらずして起草することを決意して帰国した。憲法制定は秘密裏におこなわれた。憲法に関するいかなる民間の提案もとりあげず、民衆が意見を表明することさえ弾圧した。君権中心主義をいかに憲法の中に位置づけるか、自由民研運動が求めていた人民の立憲主義的要素を、いかにして将来にわたって回避し、政権の維持を図るかが、憲法起草者の重要関心だった。
 明治二二年二月一一日、憲法は発布された、式典は宮中で挙行された。諸大臣、高官、華族、外交団が居並ぶ中、天皇は三条実美から憲法一巻を受け取り、前文を朗読し、憲法の原文を黒田首相に授与した。ここで初めて、日本国民はその内容に接したのである。


二、憲法が作った支配の仕組み
* 天皇大権…憲法の第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之を統治ス」第3条には「「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と記されていた。神に発する連綿たる皇統を持つ最高の権威者=天皇がこの国の統治者であるという宣言であった。天皇は国の元首であり、精神的な最高権威者となった。天皇の持つ権限=天皇大権は広範かつ強大だった。議会の招集、開会・閉会・
停止及び衆議院の解散命令権、宣戦・講和・条約締結権、広範な独立命令権、軍隊の最高指揮権=統帥権、緊急勅令・戒厳宣告権、などなど。これらの大権の行使には、議会は全く関与できなかった。
皇室の基礎を永遠に堅固にし、天皇大権の運用の資金源とするため、膨大な皇室財産も作られた。「予算が議会で否決されても、陸海軍の経費は皇室財産で支弁できる」ようにするための措置だった。天皇を守る「藩塀(はんぺい=囲い)」としての華族もその数を増やした。

* 衆議院・貴族院… 帝国議会は、貴族院、衆議院で構成された。貴族院は、皇族・華族・勅撰議員(特別に勅任された者)・多額納税議員で構成される。衆議院の選挙権者は、二五歳以上の男子で直接国税一五円以上納付者(第一回の選挙では人口総数のわずか1・31%)であった。貴族院は華族・高級官僚・大地主・大資本家の議会、衆議院も、有産者の議会だった。
 両院の権限は、衆議院が予算先議権を持つ以外全く平等だった。
(現在は衆議院が優越)
 衆議院で否決した法案も貴族院の反対で無効とすることができた。貴族院は、政府の別働隊、あるいは安全弁として衆議院を牽制する強い力を持ち、衆議院の権限は、狭少だった。予算審議権は、予算施行制(否決された場合、前年度予算が施行)によって、大きく制約され、法律制定権も緊急勅令、独立命令の天皇大権によって重大な制約を受けた。もちろん、首班指名もできなかった。天皇の政府、天皇の大臣、天皇の官吏の政治であった。

三、臣民の権利・義務

 維新以来の詔勅の中で、「国民」「人民」「衆庶」などと呼ばれてきた民衆は、憲法によって「臣民」と公式に定義されることとなった。国の最高権威としての天皇に従う臣民というカテゴリー(あるいは国体という言葉)は、敗戦まで、日本国民を拘束する枠として生き続け、自由に生きたいと思う人々を苦しめた。
 納税・教育と並んで兵役も臣民の義務となった。成人男子は軍隊で「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」「上官の命令は直に朕が命令」(軍人勅諭)と掲げられた忠義と服従をたたき込まれることになった。また、立憲制に不可欠な人権規定(出版・集会・結社・信教の自由など)には、「法律ニ定メタル場合ヲ除ク」と書かれた制約が付けられた。



四、教育勅語                                                 

  大日本帝国憲法は、翌年発布された教育勅語とともに、天皇の国民、・天皇の日本という理念を作りあげた。国民は政治的に天皇の臣民、温情あふれる「家父」に従順な赤子、あるいは「現(あら)人(ひと)神(がみ)」天皇を崇拝する「信者」になることを強制された。以後、教育、特に義務教育では、「皇室ニ忠ニシテ国家ヲ愛シ父母ニ孝ニシテ長上ヲ敬」う良き臣民の育成が強力に進められていく。人々はこの憲法体制の枠組みの中で、生きざるをえなくなったのである。

  終わりに
 明治期に作られた天皇を中軸とした国家は、その後、大正デモクラシー期の政治的・市民的自由の獲得、擁護を求める風潮の中で一時的に揺らぎを見せたが、昭和期に再びより強力な形で復活する。人々の生活に重くのしかかっていたこの体制を崩壊させたのは、敗戦→日本国憲法公布であった。戦中・戦後を生きた一人として、国民が主人公となる国民主権、個人の自由な活動を保障する基本的人権、そしてなによりも戦争放棄を定めた新憲法を守っていきたいと願わずにはいられない。
                                           (ねりま九条の会呼びかけ人)

 

「団体」という名の呪縛 
    「共謀法」に〝治安維持法〟の影!
     田中 穰二(豊玉在住)
                
 〝 安倍暴走〟の名をほしいままにしたのは、三度も廃案になった「共謀罪」法案を、衆議院の強行採決につづいて、参議院では法務委員会の審議を途中ですっ飛ばして「中間報告」というかたちで参議院本会議では数の力で成立させたことは記憶に新しいところです。「テロ等準備罪」と名を変え、新たに「テロリズム」などという言葉を付け加えるなどをしてまでも成立させたのはなぜか。以下「共謀罪」法という名称で吟味していきたい。 

今みなもとに「治安維持法」

 「共謀法」は、提案された当初から「現代版治安維持法」といわれ、「治安維持法の再来を許すな!」と言われれつづけてきました。〝希代の悪法〟といわれた治安維持法が公布されたのは一九二五年(大正一四年)。「普通選挙権」と抱き合わせで成立するという歴史の汚点を残しています。                      

なぜ〝汚点か

 明治維新政府は、徳川幕府を倒し、富国強兵、殖産振興を掲げて王政復古、天皇親政の政治に取り組みました。新しい時代を迎えて多くの国民は、先進の西欧諸国に学びながら、自由民権運動を初めとして、国会開設や普通選挙権制度を求めてたたかい、日清、日露戦争を経て、シベリア出兵反対、米価値上げに反対する米騒動にまで発展しました。
 これに対して明治維新政府は、讒謗律(ざんぼうりつ=政府の悪口を言う者を取りしまる法律)、新聞紙条例(政府批判をする新聞禁止)に始まって、集会、結社法、女性の政治活動禁止などの取りしまり法をつぎつぎとつくり、関東大震災に当たっては、戒厳令まで公布して、この機会とばかり共産主義者や社会主義者を虐殺。朝鮮人に不穏の動きがあるとデマを流して弾圧、治安維持に当たりました。その緊急勅令は、のちに公布された治安維持法を地でいくものでした。
 一方、普通選挙権を求める運動は、三次にわたる国民的大運動を経て「普選法」の成立を阻むことはできないと見た政府は、治安維持法と抱き合わせで成立をはかりました。「普選法」といっても選挙権は男子に限られ、財産で制限をつけるなど、およそ普選の名に値しないものでしたが、朝鮮、台湾、樺太にも施行されました。
 治安維持法は、この三年のち最高刑を死刑にまで拡大、結社の目的遂行する行為を含め、思想まで対象をひろげ、さらに一九三六年には結社にならない集団までふくむには結社にならない集団までふくめ、刑期が終わっても引き続き拘束できる予備拘束をつくるという徹底ぶりで、希代の悪法と呼ばれる所以です。

近代刑法の原則にそむく

  治安維持法成立当時の責任者である小川兵吉大臣は、いみじくも語っています。「刑法の内乱罪など国家に危害あるものは先んじて取りしまる必要がある」と。治安対策、立法化の歴史は、言論、集会、結社の規制に始まり、心の中の思想まで広げ、行為に先んじて取り締まるに至るのです。
 「共謀罪」はこれまでの審議の中で、さまざまな問題点が指摘されてきました。その中心的な問題は「何をしたら罪に問われるか」がわからないことです。金田法相から数百に上る法律があげられたり、「花見か下見か」持ち物で判定できるのかなど、法相のしどろもどろの答弁で一層混乱を深めましたが、問題の重大さはそれらの判断が捜査機関に握られており、その一存でいくらでも広げられることです。テロ対策と銘打ってこの法律が実施されたら、政府の悪政にものも言えなくなることは必定です。
 国民救援会の「救援新聞」(昨年一一月五日付け)は、特集ページでこんな例を示していました。
  ─沖縄の基地に反対するために、数人の市民が「一緒に工事強行 をやめさせよう」と集まったら、 組織的に威力業務妨   害をする「組織的犯罪集団」とされかねません。

「共謀罪」は廃止以外にない

 「テロ処罰法」と名前を変えても、「治安維持法の現代版」と批判されてきた所以についてこれまで見てきました。戦前の治安維持法による送検者は七万五千人余(政府発表)にのぼっており、逮捕者を含めると数十万人が弾圧に苦しめられました。治安維持法の法文には、犯罪要件として「国体の変革」と明示されましたが、この対象は無限にひろげられ、取り締まりに当たる特高(特別高等警察)、憲兵によって、社会主義者をはじめ、労働組合運動の活動家や学者・知識人、はては宗教者にまでひろげられ、暗黒・恐怖政治のもとで、戦争拡大の道へすすみ、ついには国土を廃墟に、敗戦にまで突き進みました。
 このすさまじい弾圧政治で逮捕、その日に虐殺された戦前のプロレタリア作家・小林多喜二の作品「一九二八年三月一五日」は次のような描写で始まっています。
 ─いいか…東京からは、もし 何なら〝ぶっ殺〟したってい いっていってきているだ!
 「国体の変革」という犯罪要求のみにもとづいて取り調べ、捜査機関が法の執行に当たれば、このような非人間的な暗黒・恐怖政治の支柱になるのは必至です。日本ばかりでなく、ドイツヒトラーの独裁政治でも、同じようなことが行われ、多くの教訓を残しています。安倍首相は、口を開けば「改革」を唱え、その突破口を「憲法九条」に置き、「但し書き」で自衛隊の存在を書き込もうとしています。「但し書き」を辞書で辞書ひくと、「ただしという語を書き出しに使って、その前文の説明・条件・例外を示す部分」と在りました。あいまいな小手先細工で、改憲に手をつけさせることはできません。
 ともに勉強し、活動して、共謀法の廃止だけでなく、戦争をなくし、平和、民主政治を記した憲法を守り、生かし、来たるべき総選挙では自公連立政権を退陣に追い
こもうではありませんか。

 ※田中穰二さんは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟都本部理事、同 練馬支部事務局長をされておられ、現在九五歳です。


  

教育がつくった軍国少年・少女  ─私の体験から            比嘉 高  

  テレビで北朝鮮の映像をみると、「将軍様」や彼を讃え歓喜する群
衆の姿に既視感を覚えます。そうです。それは七五年ほど前の日中戦争・太平洋戦争の戦前・戦中の自分の姿と重なるのです。
 私は敗戦時、小学校(当時の国民学校)六年生だったので、就学以降全期間にわたり軍国教育を受け、軍国少年となりました。
 軍国教育の核は現人神(あらひとがみ)である天皇に対する絶対的な敬愛と服従、天皇の赤子・民草(たみくさ)として天皇国家のために死ぬことを心から喜んで望み、軍・政府・警察・教師・親・年長者の言うことは天皇の言うこととして服従し、戦時生活の窮乏・不安・不便に不満を持たず、戦争遂行のため、社会秩序の維持・強化に積極的に協力し、大人になったら優秀な兵士となる子どもをつくることです。私だけでなくみな軍国少年少女にすることができたのはなぜか、それはあらゆる場、あらゆる手段での「教育」だったのだと思います。
      

─小学校の記憶─   渋谷区代々木初台  

 『奉安殿』 校庭の一角にある小型の建物、天皇の写真(御真影)と教育勅語の収納施設。小さな神社風の屋根のついた菊の御紋章のついた大金庫のようなものが石段の台座に建っている。前を通るときは直立不動で最敬礼しないと殴られる。
『教育勅語』 むづかしくて、ほとんどわからなかったが、暗唱させられた。記念日には全校生徒整列、校長先生が奉安殿からうやうやしく捧げ持ち、檀上で白手袋をして、紫袱紗に包まれた黒漆塗り文箱から取り出し、厳かに朗読。直立不動、頭を下げる。セキもクシャミもアクビもできない。あまりのキンチョウに笑いだしたくなる衝動を抑えるのが大変。時々倒れる人もいた。
『宮城遥拝』 教育勅語が終わると全員向きを変え、皇居の方角に向かい二度最敬礼。
『戦勝祈願』 毎月八日、「必勝」とか「米英撃滅」と染めた日の丸鉢巻をして。氏神様である代々木八幡まで行進。必勝祈願と境内清掃。
『修身』 いまの道徳の科目。天皇国家のために戦った忠義の兵を賛美し、生き方・死に方の美学、価値観を誘導。日露戦争時、「一兵卒ラッパ手の木口小平(きぐちこへい)は死んでも口からラッパを離しませんでした…」。敵陣の防禦堅固で、突撃隊の突破口を開くため、大型強力爆弾を三人の兵士で担いで敵陣に突入自爆した「爆弾三勇士」。旅順港閉鎖のため港口に船
を沈めに行った広瀬中佐。船は沈めたが部下の杉野兵曹長が行方不明となり、部下を探しながら船と共に沈んだ軍神広瀬の美談。などなど。

─学校以外のすべての生活の場でも─

『隣組』 食糧配給など入らないと生活できない相互扶助・相互監視・上意下達組織。回覧版。
『プロパガンダ』 「米英撃滅」「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「ほしがりません勝つまでは」「パーマネントは止めましょう」「一億一心」「一億火の玉」「ぜいたくは敵」
『新聞・ラジオ』 当時のマスコミは大本営発表の伝達機関で、国民の耳目をごまかしていた。戦意の高揚や厭戦気分の防止のため、ウソの勝利、敗北の隠蔽が日常的で、戦果は大、損害は軽微が常套語だった。戦意高揚のための勇壮話「黒住戦車隊長」、「加藤隼戦闘隊」、「敵兵百人斬り競争」などが流され、退却は「転進」、全滅は「玉砕」、略奪は「徴発」と言い換えられた。
 紙面節約のため省略しましたが、このような環境の中でつくられた軍国少年でした。教育は恐ろしいです。大事です。
                                          (ねりま九条の会世話人)

 

向山九条の会準備会が「嗚呼満蒙開拓団」上映

 向山九条の会準備会は、七月三〇日(日)九時三〇分から向山地域集会所で「嗚呼満蒙開拓団」を上映しました。
 監督であり、ナレーターの羽田澄子さんが挨拶され、四〇人の参加がありました。参加された方々から素晴らしかったという感想が寄せられ、参加者の一人、満州残留孤児国家賠償請求訴訟の弁護士さんが、裁判官がこの映画を見ていたら判決は変わったに違いないと語っておられました。映画の波紋は大きく、ねりま大泉町九条の会はさっそく一一月にも上映会を開くことを決めました。
 向山九条の会は四月に最初の集まりを持ち四 人の参加があり、二回目に向山の老人ホームに羽田さんが住んでおられると聞き、早速羽田さんを訪ねて、嗚呼満蒙開拓団の上映を決め、チラシ二〇〇〇枚を作製、地域に全戸配布し、豊島園駅頭宣伝や、創価学会城西平和講堂、真宗大谷派会館などにもチラシを置いてもらいました。当日は中村橋駅からの道案内を立てるなど、ねりま九条の会の援助も受けて成功させました。
 これからは寄せられた感想・アンケートに基づき次の計画を立てていきますが、参加された中に一八人の向山在住者がおられ、この方に呼びかけて大きな会にしていきたいと張り切っています。
 世話人は平均年齢が八〇歳、このままでは死んでも死にきれないという思いで集まった、情熱は若者のように熱いおばあさん軍団です。                                    (大柳記)

 

九条 歌壇    川柳 俳句 短歌 詩

 やるせなき 長き一日や 原爆忌
舎利の 塩むすび食ぶ 敗戦だ
基地つづく 沖縄の花 仏桑華
唐きびの 畑どこまでも 朝曇
波あらき 岩に羅漢や 雲の峰
        北崎 展江(ねりま九条の会)

軍縮は なるたけ避けたい 大企業
危ないぞ 学者が武器に 喉から手
研究費 削られ飛びつく 軍のカネ
ものづくり 兵器の部品 造らされ
夢想する 学者も軍に 取り込まれ
     学習会「アメリカの軍産複合体と日本」に参加して
        原 朗(平和を育てる大泉九条の会)

台風の近づく気配の晴れの間を競うがごとく降る蝉の声
風のやや涼しくなりたるこの夕べ『啄木歌集』親しみて読む
        内藤ます子(ねりま九条の会)