92号 2020年8月発行

「世田谷モデル」の全都・全国への広がりを期待します      福島和夫                                            

  雨続きだった7月、雨宿りで入った喫茶店でのこと。30代の男性が、マスクをあごにかけたまま、突然はげしく咳き込んだ。思わず立ち上がって、出口に向かったのは私だけではなかった。周りにいた3~4人もほぼ同時に帰り支度を始めた。咳はすぐ治まったようだったが、それから1週間ほどの間は、ひょっとして?と気になった。幸い何事もなく今に至っている。この新型コロナウイルス、自身を含めて、誰が感染しているかまったくわからない。熱・咳・くしゃみ、単なる風邪かも知れないが、どうしても疑心暗鬼にならざるを得ない。そのせいか最近は、通行量の多い商店街は避けて裏道を歩き、電車に乗って都心に行くことはほとんどなくなった。エスカレーターでは急停止しないことを祈りながら、ベルトはつかまない。厄介なのはバス。座れればいいが、何も掴まらずに立っているのは至難の技で、やむなく指2本でポールを挟む。脚力の衰えがカバーされる、体感が鍛えられる、そんな想定外の効果が出てきてくれればありがたいのだが。
 同じような経験をされている方は少なくないだろう。国や都が市中感染を正確に把握しようとはせず、「人ごみ(三密)に出るな」、「夜の街に行くな」、「感染したらそれは個人の行動のせい(自己責任)」であるかのような言い方をして久しい。政府は、口ではPCR等の検査件数増を唱えても、いまだ世界で150位以下の水準にとどまっている。この半年間、国民の不安は緩和されるどころか増幅する一方だ。
 7月末、保坂展人世田谷区長は、児玉龍彦東大名誉教授ら有識者の提言を受けて新たな戦略に踏み出すことを発表した。いわゆる「世田谷モデル」だ。23区内で最大の人口を抱える世田谷区では、このところ新規感染者数が30人を超える日が続き、8月1日には75人を記録した。累計感染者数もこの日1000人を超えた。区長の意思表明はこうした7月中旬以降の急速な感染拡大を踏まえてのことだった。その基本戦略は、検査数を抜本的に増やして陽性者を早期に保護し、感染の拡大や重症化、医療崩壊を食い止めることにある。まずはリスクの高い医療従事者、介護福祉士とそれら施設の関係者、保育園を含めた教育関係者、さらには必要に応じて「予防的な検査」を実施する方向にかじを切った。検査件数はこれまでは1日300件台だったが、区の医師会と連携してPCR自動分析機を購入し、またプール方式も取り入れて一桁上の1日3000件が可能なシステムの構築をめざしている。これはマスコミでも報道され、大きな注目を集めた。キャッチコピー「誰でも、いつでも、何度でも」が先行している感があるが、そこまでの道程はまだ長い。大事なことは、これは区長の英断ではあるが、個人的なスタンドプレーや思い付きではないことだ。6月の区議会では、保健所機能の充実を求める政府への意見書が、区議会野党の自公も含めて議員提案され、全会一致で採択された。7月には日本共産党地区委員会が検査体制の強化、世田谷版専門家会議の設置、国・都への対応要請の3点を区長に緊急申し入れしている。                               (世田谷・九条の会事務局長)

 

「核兵器禁止条約を批准する政府を」                      有原 誠治

 2017年の7月7日。帰宅途中にスマホで、核兵器禁止条約が国連総会で採択されたと知り、うれしさのあまり、思わずスキップをしてしまいました。
 賛成122カ国、反対オランダ1カ国、棄権シンガポール1カ国。被爆者たちが長年にわたって訴え続けてきた核兵器廃絶の願いが、ついに国際社会に受け入れられて、世界の人びとの集団作業を経て核兵器禁止条約として成文化されたのです。その正式名称は、「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」です。その名の通り、核兵器のいかなる存在も認めないという画期的なものでした。
 ここに至るまで、日本の被爆者たちの血のにじむような努力がありました。原爆投下から 年目の1956年、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)結成総会は、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。」と、宣言しました。その宣言にもとづいた行動の一例として、私は1982年第二回国連軍縮特別総会全体会議での、山口仙二さんの血を吐くような訴えを思い起こします。
 「私の顔や手をよく見て下さい。よく見て下さい。(中略)核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。」
 このようにして日本の被爆者たちの訴えは世界中の人々に広がり、核兵器禁止条約をつくり上げる土台となったのです。
 2017年3月 日、核兵器を「非人道的」として禁止する条約の制定をめざし交渉会議が国連で始まりました。
 この会議に、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国などの核保有国は反対。日本政府は、アメリカの核抑止政策に追随する立場から反対。同年7月の国連での採択でも不参加の態度をとり、被爆者の期待を大きく裏切りました。 被爆国の政府が、核兵器廃絶の〝抵抗勢力〟となっているのが現実です。「総理、あなたは、どこの国の総理ですか」。2017年8月9日、長崎市内で被爆者団体(5団体)代表のひとり川野浩一さんは、安倍首相に要望の場でこのように発言して痛烈に批判をしました。
 核兵器禁止条約は、世界の ヶ国の議会で批准(賛成)されると国際法として発効されて、核兵器は違法なものとなります。8月9日にカリブ海の島国、セントクリストファー・ネービス国が批准。すでに ヶ国となり、目標まであと6ヶ国。私たちの政府がその輪に加われるか否かはきびしい状況ですが、たとえば、「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」を地域や職場で取り組むことで、改めて核兵器廃絶の声を国民多数の世論として政府に突きつけることができます。今すぐに、ご一緒に始めましょう。
                               (ヒバクシャ国際署名推進ねりま連絡会代表。ねりま九条の会世話人))

樺太からの引き揚げ                               天辰 洋子  
    

 天辰洋子(旧姓三田寺88 歳)は樺太大泊郡遠淵村生まれ、終戦時は13歳。そこは漁村で、牡蠣、タコ、ナマコ、イカ、カニ、鰊、鮭、海の幸がふんだんに取れたので、青森、秋田の農民が農閑期に出稼ぎにたくさん押し寄せた。米は取れないが、野菜は期間が短いが作ることができて困らなかった。ジャガイモはなん十俵も地下倉庫に保管した。冬は亜庭湾が厚く氷結し、穴を空けて網を下ろしカンカイ(コマセ)という魚を取った。大泊港からはバスが通っていたが、冬は亜庭湾を横切る馬橇が交通手段であった。冬は風と雪がすごく、家が吹き飛ばされそうで近所の警察署に避難したほどだった。 父は網元で番屋を構え手広く商いをしていた。7人姉妹の長女で何不自由なく過ごし、東京白木屋で着物を買ってもらった。それが自慢だった。尋常小学校は300人もいただろうか。やんちゃ娘で、学校をさぼってスキーで亜庭湾の奥まで遊びに行き楽しく過ごしたが、父にこっぴどく叱られた。春先はこの氷がバリバリ音を立てて割れた。
 近くには炭鉱もあり、大きな製紙工場もあり、炭鉱夫や森林伐採にたくさんの朝鮮人、中国人が徴用工として連れてこられていた。ひどい仕打ちに耐えかねて逃げ出す人がたくさんいた。私の家に逃げ込んできた朝鮮人は、冬のさなかというのにぼろぼろの服装だったので、母親は気の毒に思いご飯を食べさせ、お金と握り飯を持たせて逃がしてやった。追いかけてきた人が「タコは来なかったか、どっちへ逃げた」と言うので「あっちへ逃げた」と逆の方向を指さした。あの人は本国に帰りついたのだろうか。連れてこられたときは日本人扱いで、戦争が終わったら朝鮮人だから関係ないと、日本政府は帰国の便宜を図らなかった。今も樺太に残された人が少なくない。日本政府から棄民された朝鮮人は、日韓請求権協定で戦後処理は終わったとされているが、未解決事項の一つである。
 8月15日、敗戦でソ連兵が入ってきて、時計を差し出せと鉄砲を突き付けられた。日頃近所づきあいしている白系ロシア人はそんなことはしなかったが、転戦してきた兵士は乱暴だった。
 数日して日本人は男を残して本土に引き揚げることになった。私たちは艀(はしけ)で遠淵から大泊に行き、大泊から稚内に渡った、大泊には大きな船が何隻も泊まっていたが、父は大きな船は危ないから小さな船で行くよう引き留めた。町の世話役をしていたから情報を得ていたのかもしれない。大きな船3隻が留萌沖でソ連の潜水艦に轟沈させられた。その中には同級生も乗っていた。女子供9人で稚内に下りたが、弟を見失いあの長い桟橋、人混みを声をからして探し歩き、やっと探し当てたのは人波が引いた後だった。今でも「私はお前の命の恩人だよ」と弟に話すことがある。石炭を積む無蓋車に乗って函館まで行ったが、炊き出しのコーリャンの握り飯はすぐぽろぽろ崩れたがありがたかった。母の実家の岩手県亘理町に身を寄せていたが、2か月後に父が樺太の家を処分して帰国した。伯父が深川の材木商で、軽井沢に別荘があったのでそこに住まわせてもらい、数年後深川の社員寮に移ったが、父は早く亡くなった。私は中学卒業後、美容師の資格を取り、いろんな職業を経てきた。あのつらい体験から、戦争は二度とイヤ、絶対に戦争してはいけない、だから憲法9条は変えてはいけないと署名した。
 弟は一度樺太に行ったが、住んでいた家はまだ残っていて人が住んでいた。
 私にとって樺太は、自然は厳しいが資源が豊かで、道路が広く碁盤の目のような通り、日本人が作った街だが日本とは全く違う趣で、別世界のようなところだった。戦争で日本の領土にして、戦争で失った故郷だ。政府に踊らされた人生だった。


奇しき出会い 平良修牧師とエルダー宣教師                    西浦 昭英

 2019年8月、大阪女学院大学で行われたあるセミナーに参加しました。私が4月に沖縄に移住したことを知った理事長が声をかけてくれました。「平良修牧師のお祈りで相談にのったエルダー先生が、大阪女学院大学の名誉教授で、 歳でお元気です」 (お祈りについては、新聞記事を参照のこと)
大変驚きました。後で平良先生に聞くと、 年お会いしていないということで、何とかお二人を再会させたいと思い、動き始めました。11/20〜22 の3日間の来沖は、プライベートな旅行ではなく、大阪女学院が宣教師の歴史の調査・聞き取りとして取り組むとしてくれました。
また、一般向けの講演会は、沖縄キリスト教学院をお借りすることができました。
11/5 県庁の記者クラブで、予告の記者会見を開き、タイムス、新報、沖縄テレビの3社が参加してくれ、翌 /6新報が記事にしてくれました。写真には私の姿も写っていました。

【11/6 私の知人宛てのメール】
 今日、塩川で、辺野古へのダンプの搬入を阻止していました。ダンプの出入りがなかった僅かな時間、1人の機動隊員が、私の所に近寄ってきました。何かあったのかと嫌な予感を持ったのですが、「今日の新聞の写真、見ましたよ」と言われ、驚きました。よく目にする機動隊員で、向こうも私の顔を覚えていたのでしょう。(小さな顔でよくわかったなと不思議でした)。その機動隊員は、背景などを知らなかったので、「ご両親の世代は、高等弁務官の就任式の祈りの件、覚えているかもしれませんよ」 「講演会は一般公開ですら、是非来てください」と、言っておきました。実際に来てくれたらビックリですね。
11/20 50 年ぶりの再会の様子を、琉球新報も沖縄タイムスも好意的に報道してくれました。しかも、その夜に行われる、講演会の場所と時間を紹介してくれました。「米軍占領下の沖縄の教会」で、クリスチャン向けの題にしたのですが、雨まじりの天候にもかかわらず、160人の参加者が来てくれました11/22は、エルダー宣教師が与那原教会にいた頃、小学生だった具志堅篤牧師が案内をされ、与那原教会の信徒である、安谷屋初子さん(100歳)、辺土名貞子さん( 98歳)と、50 年ぶりにお会いできました。その後、念願だった魂魄の塔にも祈りをささげることができました。

 ■平良牧師の祈りの言葉(抜粋)
 過去 年、戦争と、戦争の脅威により、世界の多くの人々が家庭と愛する者たちから引きさかれ、私どもの郷土、沖縄も祖国から切り離される憂きめを体験してまいりました。
 神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。
 神よ、沖縄にはあなたひとり子イエス・キリストが生命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をしてこれら市民の人権の尊厳の前に深く頭(こうべ)を垂れさせてください。
 主なるあなたと沖縄市民に対して、重大な責任を負われる新高等弁務官の就任式にあたり、これらの衷心からの祈りを主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

【沖縄タイムス】 [大弦小弦]  

 2019年11月24日 「歴史の節目節目に、具体的に誰かと会うことはすごく意味がある」。 牧師の平良修さん(87)はまっすぐな視線で静かに、力強く語った。あの日を彷彿(ほうふつ)とさせた。

▼1966年、アンガー第五代高等弁務官の就任式。米軍統治下の最高権力者を前に平良さんは祈りの言葉を述べた。「最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように切に祈ります」。広く県民の共感を呼んだ。

▼祈りの英訳の相談を受けた一人が当時、沖縄で活動していた宣教師のウィリアム・エルダーさん(92)。祈りに賛同した。現在、大阪女学院大の名誉教授で、研究活動の一環で来県。平良さんと 年ぶりの再会を喜び合った。

▼沖縄キリスト教学院大では2人並んで講演。平良さんは英訳の相談の際「内容には触れないで」と望んだと明かし「間違っていない。この祈りは祝福される」との信念で臨んだという。

▼エルダーさんは沖縄の現状を憂いた。「正常にするべきだ。依然として軍の影響は大きい」。かつて沖縄で活動した際は、県民と行動を共にした。戦争体験もよく耳にした。「沖縄は本当に苦しめられている」と実感する。

▼高等弁務官は1972年の日本復帰に伴い第六代を最後に廃止された。が、辺野古をはじめ、県内に米軍基地を押し付ける構図は続く。復帰前の県民の苦境は今と重なっている。(内間 健)

●米軍占領下の沖縄の教会〜平良修牧師&ウィリアム・エルダー宣教師 証言会〜
https://www.youtube.com/watch?v=cOa1ZtnQ_bo&list=PLu5CHlKo-lOjKcpvl2rVsbX5aFnFmKghb&index=2
12月22日の証言会の記録です。

●「こころの時代 『イエスと歩む沖縄』」 2013年11月21日NHK・Eテレで放送された。著作権の関係からか、映像はありませんが、台詞をすべて起こしているものがあります。http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-626.htm


 

森友事件は終わっていない  赤木雅子さんの『真実が知りたい』を読んで        坂本 幸子 
      
■「公務員の雇い主は国民」が口癖だった赤木俊夫さん

 『真実が知りたい』(赤木雅子×相澤冬樹共著)を読んだ。読み始めてすぐ自死の場面が出てきて涙が出た。
 財務省近畿財務局の上席国有財産管理官であった雅子さんの夫赤木俊夫さんは、誠実で快活な人だった。「公務員の雇い主は国民で、公務員は国民のために仕事をしなければならない」が口癖だった。
 その俊夫さんが、安倍総理の妻昭恵氏と関係の深い森友学園が予定していた小学校の設立に当たり、近畿財務局が国有地を9割引で払い下げる経過を記録した文書の改ざんを命じられた。俊夫さんの顔から笑顔が消えた。「自分がやったことは内閣が吹っ飛ぶ大罪だ」と必死に抵抗した。
 しかし、「全責任を請け負う」との上司の言葉があり、「若い部下にはさせられない」と改ざんをやらざるを得ない状況に追い込まれる。改ざんは数回にわたった。

■相澤記者とともに真相を追う

 妻の雅子さんは夫の死が納得できず、「真実が知りたい」と提訴に踏みきった。そこに至るまでには、様々の悩み、葛藤があった。
 改ざんの詳細を記した俊夫さんの手記は一目で誰が関与したかが分かる内容だった。しかし、相談する相手もなく、その頃には夫の親友も、親友に紹介された弁護士も信用できなくなっていた。たまたま「週刊文春」で名前をみた相澤冬樹さんに連絡を取ってみた。相澤さんはNHK記者として森友学園問題を担当していたが、記者職を解かれ退職した人物である。
 相澤さんもジャーナリスト、すぐにでも記事にしたかったが、雅子さんの話をじっくりと聞き、信頼を得るまで粘り強く接した。それには1年4か月を要した。こうして、二人は元上司と面会し、話を聞き、精査することによって話の本質をつかんでいった。
■理財局、近畿財務局挙げての隠ぺい工作
 安倍総理の「私や妻が関わっていたら、総理も議員も辞めるとはっきり申し上げる」 安倍首相のこの言葉から財務省理財局と近畿財務局挙げての隠ぺい工作が始まった。安倍総理には強く出る理由があった。妻昭恵氏が関わっていたからだ。森友学園理事長の籠池泰典夫妻との3ショットという動かしがたい証拠もある(黒塗りにされていたが)。
 直接の指示を出した佐川元理財局長は、国会では知らぬ存ぜぬで真実を語らなかった。全責任を取ると言った上司、関係者 人もことごとく不起訴になり、同部署の全員が栄転した。近畿財務局の誰もが、「理財局と財務局が嘘を重ね、虚偽答弁を繰り返している」ことを承知し、疑問を持ち続けても、反論を示す人間は誰一人としていなかった。

■親友も話を捻じ曲げる

 岡山での葬儀では、財務省や近畿財務局の幹部はほとんど参列しなかった。 人ほどの参列者はみな記帳をしなかった。現役の職員の死だから大勢集まるはずが、葬儀の日程すら知らされなかった。寂しい葬儀だった。
「麻生財務大臣が墓参したいと言っている」と深瀬さんという親友から聞かされ、雅子さんは「ぜひいらして下さい」と返事をした。ところが、深瀬さんは、雅子さんに内緒でお兄さんに連絡を取り、「マスコミが押しかけて大変だから、お兄さんが墓参をお断りしたということにしたい」と告げてきた。麻生大臣は「遺族が来るなと言うから行かなかった」と述べている。親友すら話の捻じ曲げに加担したのである。
 俊夫さんは、手記の最後に「パワハラの佐川局長には誰も背けない」と述べている。「家族を泣かせ、雅子の人生を破滅させたのは、本省理財局!私の大好きな義母さん、謝っても、気が狂うほどの怖さと、辛さ。こんな人生って何?兄、実父、みんなに迷惑をおかけしました。さようなら」 最後の言葉は涙なしでは読めない。
 赤木俊夫さんは何も悪くない!改ざんの罪を一人に押し付け、嘘の証言を重ねた同僚は出世し、毎日暮らしている。こんな世の中は間違っている。
 赤木雅子さんの裁判を心から応援したい。事件はまだ終わっていない。        (中村・貫井・富士見台3地域九条の会会員)
          

 

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