48号 2013年8月発行

〈1面〉

多くの自覚した個人の参加こそが希望!
         

                                               大柳武彦(練馬九条の会事務局長)

 昨年のねりま九条の会の総会以降8ヶ月が過ぎた。都知事選挙での宇都宮健児さん当選のために全力を挙げたが完敗した。その教訓と七月の参議院選挙で改憲派が三分の二を占めたら大変だとの危機感から、区民全員への宣伝の必要を痛感。九条の会だけでは七四万区民への宣伝は不可能と考え、知事選の教訓から志を共有する人々に呼びかけ、個人の集まり「いのちのために手をつなぐ練馬の会」の発足となった。
 参議院選挙の焦点に憲法九六条改悪が持ち上がり、これを阻止しようと区内各層の共闘が呼びかけられ二三団体、一〇〇名近い個人の賛同で「九六条どうする?ねりま」が発足した。六月三〇日に三駅頭宣伝、三箇所からのパレード、練馬駅前つつじ公園で集結、集会を開催し多くの区民にアピールした。これも公選法上参議院選挙公示までしか動けなかった。
 そこで政治活動がだめでも上映活動なら良かろうとねりま九条の会は独自の企画で、「日本の青空」、「憲法ってなぁに」、「おりづる」上映の宣伝活動を全駅頭・街頭で行った。雨の中でもハンドマイクで連日訴え、チラシを配り、会場周辺の各戸に入れた。今年に入って四〇回に及ぶ駅頭宣伝、三万枚を越すチラシ配布は選挙の結果に反映されたと確信している。
 西武線、中央線沿線共同行動が実現した。一〇万枚の全戸配布を実施した八王子の九条の会、一一〇〇人の賛同人を集めた西東京市のローカル紙意見広告、各市の駅頭宣伝。こうして九六条改悪反対、九条守れで政党を超えて参議院選挙は闘われた。
 しかし参議院選挙の結果は自民が圧勝した。九六条改憲は国民世論の高まりと、公明への配慮からいったんは引っ込めた安倍政権だが、内閣法制局長官を入れ替えて解釈改憲で事実上アメリカとの共同軍事行動を合憲化、集団的自衛権行使、武器輸出、こうした積み重ねの上に明文改憲を目論んでいる。
 しかし麻生大臣のナチス発言、誤った歴史認識は国際的な非難を受け安倍政権の外交上致命的な弱点となっている。またアベノミクスは格差・貧困を広げ、社会保障の改悪を進め、消費税、原発、TPPなど様々な問題で国民との矛盾をひろげている。
 都立高校生の自衛隊合宿訓練、銃剣道の正課への取り入れなど学校教育の分野でも改憲の先取りが進んで教師や子どもが危機にさらされている。
 こうしたもとで自民党に対抗する力も強くなり、若い世代も台頭してきた。また、九条の会のチラシを見てはじめて参加した人も多く、大いに期待できる。
 ねりま九条の会はこれからじっくりと腰をすえて、自民党の改憲案と現憲法の違いを学び、私たち一人ひとりが憲法を日常生活に生かすとともに、憲法に従って政治を監視する「市民」に育つことを目標にし、新しく購入した「日本の青空」上映運動、「憲法ってなあに」
(伊藤真講演五〇〇円)の普及運動などを草の根から展開していきたい。
 自民党も九条の会に対抗して地域で説明会を開催するようだから、これからは組織戦に入っていく感がある。


〈2〜7面〉


岐路に立つ今だからこそ 日本の「植民地政策」を検証しよう!

  六八回目の八月一五日を迎える今年、参議院選挙で圧倒的な勝利をおさめた自民党は、〝ねじれ解消〟をいいことに、集団的自衛権の容認にむけて着々と準備を進め、「ナチスのように静かにひっそり改憲したい」という本音まで覗かせています。
 安倍総理をはじめ、閣僚から「侵略の定義は確定していない」「植民地支配は、悪いことばかりでなかった」などの発言が相次ぎ、メディアは、北朝鮮や中国の脅威を煽り立てて、九条改憲の機運を高める働きをしています。
 侵略戦争への反省から生まれたはずの戦後体制が崩れ、再び戦争のできる国へと舵を切ろうする日本を、アジアの人々はどう見ているのでしょうか。
 ねりま九条の会では、日本の植民地支配の結果、日本に残らざるを得なかった在日朝鮮の人々からお話を伺いました。                              

   
     2013年7月31日    在日の人々との懇談会風景  

1、なぜ日本に「在日朝鮮人」が存在するのか? 
■「徴用で連れてこられた方は気の毒だけれども、出稼ぎは自分の意思で勝手に来たのだから問題ないのではないか」と言う日本人は少なくありませんので、まず、その誤解を解くために、ご両親が日本に来られた理由をお聞かせください。

Aさん 私は一九二九年に慶尚北道で生まれました。日本に来たのは八歳の時です。両親が日本に来た理由についてお話します。
 一九一〇年に、日本の権力者た ちが厳戒体制を布いて拳銃で脅迫しながら「韓国併合条約」を結びましたね。(※一九〇五年に締結された第二次日韓協約によって外交権はほぼ日本に接収されることとなり、大韓民国は事実上、保護国となっていた)。朝鮮を植民地にした朝鮮総督府は、大正元年には土地調査令だとか、森林令だとか鉱山鉱業令などというものをつぎつぎと発令して、 資源や肥沃した土地などを 全て日本のものにしてしまったのです。政治家たちは「鉄道を敷いたり、橋をかけたではないか。何が侵略か」と言いますが、実際は伐採した木材や掘り出した鉱石を運搬する目的で鉄道がしかれたに過ぎないのです。
 そういう中で、抗日運動が盛り上がりました。父は「家」を守る ために一五歳で結婚し、学校に通っていたのですが、運動に参加したために日本の官憲に睨まれて故郷にいられなくなり、単身日本に渡ってしまいました。それで母と私たち兄妹は祖父母と朝鮮で暮らしていました。
 植民地時代は辛い思い出ばかりです。祖父母は、綿と、強制的に作らされた煙草を生活の糧として作っていました。それを日本の官憲が来て持っていくのです。向こうでは綿は布団だけでありません。糸を紡いで機織りをして、その布で男のハジチョゴリや、女のチマチョゴリを作っていました。そういう大事な綿ですから、全部取られてしまわないように、祖父が背負って、山の奥に持って行って岩陰に隠すのを見たことがあります。
 それと、春窮期(しゅんきゅうき)とみんなが呼んでいた時期がありました。米を供出してしまうので、二月から五~六月までの間食べる物が無くなってしまう時期のことです。その間は、大根の葉っぱや、白菜の上側を干した物をゆがいて、米粒が見えないくらいのおじやにして飢えをしのいでいました。
 春窮期に入る前でも、ご飯はほとんど麦か粟で、その脇に少しだけ米を入れて炊くのですけれど、米の部分は祖父によそってしまうので他の人は麦や粟だけでした。
 私どものところでは、直接官憲に捕らわれるということはありませんでしたが、ひもじい思いと大人たちが作った作物をかっさらって行った官憲の姿、そして少しでも山に隠そうとした祖父の姿が目に焼き付いています。
 学校では朝鮮語を禁止されていたので、みんな唖になって口をきかず、休憩時間になると校舎の陰に隠れて朝鮮語で一斉におしゃべりをするという毎日でした。

■ほかの方は二世、三世でしょうから、朝鮮での植民地支配の話を聞くことはできませんが、ご両親が日本に来られた理由を教えていただけますか。

Bさん  私は父から「日本に勉強に来た」と聞かされていました。しかし、父が亡くなった時に、従兄弟の兄さんかから話を聞いたところ、父は一五歳の時に、国を憂えて、『日本に行って朝鮮を取り戻す』という一筆を残して、親友三人といっしょに家出をして日本に渡ったのだということを知りました。

Cさん  土地を奪われたので、長男が家を継いだら次男、三男は生活できません。そこで父は、村の青年たちといっしょに「日本に行って勉強しよう」とか「一旗揚げよう」とか言って日本に渡ったようです。わずか九歳でした。日本についてからは、仲間とはぐれて一人になり、様々な仕事をしながら生きて来たそうです。

Dさん  父は生前、自分の過去について父は何について何も語りませんでした。あまりにも辛くて言葉に言い表せなかったのでしょう。しかし亡くなる寸前に父が書いた自叙伝を読んでみましたら、父の故郷に対する思いは並大抵ではないことがわかりました。
 一九二一年、父は済州島で生まれました。済州島では半農半漁で生計を立てていました。しかし、日本の朝鮮に対する植民地支配により、一九三〇年代のはじめには、主な都市や港湾値域に日本人が千数百人住んでいて、肥沃な土地と漁場を所有し、日本の地主や資本家が経済的な利益を独占しました。そのため島民の生活状態はだんだん追い詰められて貧しくなっていきました。父はわずか九歳で、生活の糧を得るため日本に渡ってきたのです。

■日本に来られても待っていたのは厳しい差別だったわけですね。

Dさん  父は日本に来てからは、泥棒以外、やらないことはなかったと言います。父は一九歳の時に、朝鮮人差別があまりひどいので、民族として誇りを持って生きていきたいと考え、有志たちを集めて学習会をしました。そのことで日本の特高警察に捕まって三年九ヵ月の刑を受けて刑務所暮らしをしたのです。ただ朝鮮人として暮らしたい、朝鮮人として誇りを持っていきたいと言ったために独房に入れられたのです。そしてすさまじい拷問を受け、三日目に洗面器いっぱいもの喀血をしたのです。ところが医者にも診せず、ただ寝かせておくだけでした。体が回復してくると、刑務所では毎日二~三人死人が出るので、その運搬をさせられたと書いています。
 母が面会に行った様子を平林久惠さんという方が聞きとりをしてくださった本があって、それによると「面会に行くと拷問のために顔がめちゃくちゃになっていた」のだそうです。父は「自分が生きて帰ると思うな」と言いたかったけれど口にはせず、私の兄を頼むと母に言ったそうです。

■戦後、帰国できなかったわけを教えてください

Cさん 開放を迎えた在日朝鮮人(当時約二〇〇万人)は、なだれを打って故国・故郷へと向かうため、日本全国から、下関、福岡、仙崎、佐世保、舞鶴の港へぞくぞくと集結しました。
 しかし、日本政府は帰国の具体的方策を取りませんでした。船の手配がつかず、幾日も港に留め置かれ、野宿のはてに病で亡くなる人もありました。待ちきれず、自力で小舟を仕立てて玄界灘を渡った人たちの中には、台風と重なって船が転覆し死亡、九州の海岸にには多くの死体が打ち上げられたそうです。
 舞鶴湾内での浮島丸事件では、五四九名が犠牲になりました。祖国に帰ることも命がけでした。
 一九四五年、ようやくGHQの指示で計画輸送が始まり、開放から一年あまりで約、四〇万人が帰国しました。
 しかし、一九四六年三月以降、持ち帰り財産の制限、母国の政情不安、インフレの進行、コレラの発生などで、帰国の足は鈍り、本国の情勢が落ち着くまでと、帰国を当分見合わせた人たち約六〇万人が現在の「在日朝鮮人」です。

 2、「本名」を名乗るきびしさ
■一九四〇年の創氏改名で、朝鮮の人たちは日本名を名乗ることを強制されましたね。しかし開放された筈の戦後も、やはり本名である「朝鮮名」で通すには、不都合なことが多かったのではないかと思いますが、いかがですか。

 Aさん  私は一九三七年に日本に来まして、日本で皇国臣民になる
ための教育を受けました。皇国臣民の誓いを暗記したり、宮城遙拝もしたり、紀元二六〇〇年の時は提灯行列にも参加しました。私は改名させられました。日本名で日本の学校に通い、日本の生徒たちと同じようになろうとしました。しかし、朝鮮民族に対する差別は依然としてありました。日本名になっても皇国臣民の誓いを諳んじても一生懸命勉強をして良い成績を取っても、朝鮮人は朝鮮人なんです。差別するんです。そういう中で私は朝鮮人なのだと悟りました。終戦を迎え、親は「すぐに日本の名前を捨てよう」と言って、同化政策の一つとして押しつけられた名字を捨てました。それ以来、私は朝鮮名で通しています。そのために銀行からの融資とかは難しいのですけれども、民族の誇りは守っていかなければいけないと思っています。

 Eさん  在日に於ける通名と本名の関係ですが、大きく四つの傾向があると思います。
①本名を名乗る。
②本名では就職ができない等の生活上の問題から使い分ける。だからといってアイデンティティを失うわけでない。
③完全に隠し通す。
④帰化をする。
 本名を名乗るのは教育と育った環境、信念などによります。使い分けるのは、やはり差別によるものです。銀行の融資は、国籍による税制上の差別がまだあるので貸し出しが厳しいです。特に「朝鮮籍」の場合は難しいです。だから私たちは自分たちの組合をつくっています。 わたしの息子は、高校までは朝鮮高校で、大学だけは日本の大学に行ったのですが、就職試験では五〇箇所受けて全部落ち、ノイローゼのようになりました。とこ
ろがその内の三分の一は第一次を突破できて、第二次で落ちているのです。
 私は「朝鮮人だから落ちたと思って泣き寝入りするな」と言っていたのですが、さすが四〇箇所落とされた時点でノイローゼ気味になりました。最終的な審査で、「朝鮮籍」というところに引っかかっていたのです。でも五一箇所目に朝鮮籍で
も受け入れてくれる会社がありました。
 国家試験に受かった人には社会も受け入れ体制を取っていますが、会社への就職では限られています。主な就職先はパチンコ屋、不動産業、飲食関連などです。一流企業で「朝鮮籍」で活躍することはまれです。

 Dさん  主人も私も朝鮮名で生きていこうとしていました。でも主人の務めていた会社で人員整理があって、失業保険をもらいながら職業訓練所に通いました。主人は五九歳、その中では比較的若い方でした。そこで一〇ヵ月通って技術を身につけました。主人は成績が良かったらしく、求人が来
たときには必ず主人の名前を入れてくれるのですが、必ず落ちるの
です。三度目に落ちたときに主人は「わたしが朝鮮籍だからですか?」と聞いたそうです。するとそうではない筈だというのですが、今度は通称名で(日本名)で出したら一ぺんで受かったのです。
 私もどうしても働かなければな
らなくて、就職をしたのですが、はじめは朝鮮名で面接を受けましたが不採用でした。全部断られました。今から二四年前のことです。まだ四二歳でした。求人広告をみたりハローワークに行っても、いつまでも決まっていない会社がありました。漬物屋でしたが、そこに出したら大丈夫でした、ところが面接で「電話で金と言われると…」と暗に「通称名にしてくれ」という感じでした。私は生活のために通称名にしました。
 また、こんなこともありました。不動産屋で、女性店員が私の目の前で、「一つ大きな問題があります。
朝鮮人なんですよ」と家主に報告したのです。この時は別の日本人が「何ということを言うんだ」と言って自分で物件を案内してくれました。二五年前のことです。

 Cさん  一九七〇年に、日立製作所に通称名で願書を出して採用通知が来たのに「韓国籍」のために不採用になった「朴鐘碩裁判」(就職差別訴訟)を覚えてますか? 彼は採用取り消しを不服として提訴したのですが、その時は、慶応大学をはじめ多くの日本の大学生たちの応援が大きかったことが手伝って勝訴しました。当時は社会自体がまだそういう雰囲気を持ってたのですね。

 Fさん(八二歳) 今日本には学生運動がなくなりましたね。労働運動もないし…。
 僕は九州大学の工学部を卒業しました。朝鮮戦争の直後で日本経済が上昇し始め、同級生は卒業前にみんな就職が決まっていました。ところが僕は何回受験してもダメでした。最後に教授は、「いつまでも民族に拘らないで帰化したらどうか」と勧められましたが、就職できなくても帰化は絶対にしないと断りました もし卒業証書
の名前が当時の日本名そのままだったら、国に帰っても役に立たないから、本名の漢字三文字を書いて教授に渡しました。こうして
小学校入学以来一六年目に本名を取り戻しました。民族差別は内容と方法を変えながら絶え間なく続いています。


 3、民族教育にかける思い
 教育は国づくりの基礎ですが、在日の人々が心を砕いて苦心して立ち上げたのが教育です。初めは「祖国に帰るためには母国語が必要」というところから、民族教育は始まったのですが、国を奪われ、言語を奪われ、名前を奪われて、その苦しさ悔しさを誰にも言うことができない。この思いを後生に残したくないという思いでここまできたと思うのです。
 私が今両親に一番感謝することは、私が自分を卑下したり否定したことが一度もないことです。私は自分が生きて来て、人として生きてありがたい、両親の子どもに生まれてきてありがたいと思うと同時に、朝鮮人として生まれてきたことに誇りを持って、生きてきたことを感謝しています。

Dさん  子どもを産んで育てる中で差別の壁に当たりました。子どもが通学に使うJRの学割定期券が認められなかったのです。それで父母たちがこれは子どもに対する差別だと立ち上がって、大きな運動になり、八年目にやっと使えるようになりました。差別だとわかっていながら、動こうとせず、八年もの歳月を要したのです。
 今は高校無償化運動をしていますが、最初は田中真紀子さんが直接朝鮮学校を訪れ、理解を示したのですが、それから三年経っても実現できていません。
 差別に立ち向かうということがどんなに大変かを実感しています。


4、「朝鮮籍」は「記号」

■日本人の多くは、朝鮮籍を持つ在日の人々を、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国}の国籍を持つ人々であると思っていますが、そうなのですか。

Bさん  「朝鮮籍」は国籍名ではなくて記号なのです。
 一九四五年八月一五日、朝鮮が開放された時、日本には二〇〇〜三〇〇万人と言われる朝鮮人がいました。
 故郷へ帰ろうとする人々は、下関や福岡に殺到しましたが、渡航費の工面や財産持ち出し不許可、特に本国の政情不安等で六〜七〇万が日本に残りました。
 日本政府は一九四七年五月に外国人登録令を出し、「朝鮮人は日本国籍は有するものの、当分の間
外国人と見なす」としました。そして一九四八年に南に大韓民国ができ、北に朝鮮民主主義共和国が建設され、一九五〇年に朝鮮戦争が起きました。
 一九五一年、サンフランシスコ平和条約に調印した日本政府は、「朝鮮人及び台湾人は全て日本国籍を喪失」させ、国籍選択の自由を与えないまま、在日朝鮮人は、地域を示す呼称として「朝鮮籍」としました。それが今日まで続いているので、「朝鮮籍」は国籍名ではなく、記号なのです。
 今同胞は、朝鮮籍と韓国籍に別れています。九〇%は南半分の出身ということもあり、墓参とか外国旅行、融資の斡旋、就職等のため、韓国籍を取得する人が多いのですが、積極的に韓国籍をとる意思のない人は、そのまま記号の朝鮮籍を持ち続けています。


  5、社会保障と永住権
 
■在日の方は日本人と同等の税金を納めているわけですが、国民年金や国民健康保険、生活保護などの社会保障はどうなっているのですか。

Cさん  厚生年金は会社で団体加入していましたが、国民年金や国民健康保険、都営住宅などに入る権利は、一九八一年に「国連難民条約」を日本が批准するまでは何もありませんでした。ですから今無年金者がたくさんいます。一九九一年になって、日韓外相会議で、「在日朝鮮人法的地位及び処遇に関する覚え書き」を交わされ、それに基づく「入管特別法」が施行されて、やっと朝鮮・韓国関係なく永住権が認められるようになりました。
 私は二世、孫がいますから四世まで日本で生活することになりましたが、今南の父母の故郷に帰ると言っても、もう縁故者は誰もいません。北に帰っている主人のご両親も亡くなりました。そういう状態で私たちは日本に根付いて暮らすしかないのです。


6、拉致問題と在日朝鮮人

戦後の冷戦構造がそのまま、今の新しい差別を生んでいるのですね。
拉致問題以降、東京でも「在特会」による「ヘイトスピーチ」などがあったり、高校無償化から朝鮮高校が外されたりいろいろありますね。

 Dさん  一時は、差別はいけないという気運が高まりつつあったのですが、拉致問題以降、在日朝鮮人に対する処遇は、大変きびしいものになっています。
 私は両国関係改善のためにも、ピョンヤン宣言で合意をみた国交正常化を進めていくべきだと思うのです。

Bさん  私たちは日本のみなさんと、毎月二〇日に高校無償化の朝鮮高校への適用を求めるビラ配りをしています。その時に、日本の大抵の方は「何よ、税金も払わないで」と言われるのですが、私たちは納税の義務は果たしています。日本人がイメージする在日朝鮮・韓国人って何なのでしょう。そのイメージはどういう状況でつくられ、どういう状況で今まで固定されて、何の気後れもなくそういうことが言えるのか、これは子どもに対してもそうですよね。政情不安になるとチマチョゴリが切り裂かれる。そういう身体的な危害を加えるまで、隣の娘さんに対しては絶対にできない行為をためらいもなくできる。その空気、今まで積み重ねられてきたそういう部分に対して人としての不条理を感じますし、憤りを感じます。
 でも一方で、一生懸命署名集めをしたりビラ配りをしてくれる人たちもいます。その人たちに「感謝の気持ちを伝えたら、「とんでもない、これは私たち日本人の問題なのです」と言ってくれるのです。そういうとき、「私たちは一人ではない。支えてくれる仲間がいる」と本当に嬉しくなります。
 お互いを尊重するためには、お互いを知り合うことが第一歩だと思っています。そこから始まって違いを認め合う成熟した関係までいかに持っていくかが、今日の課題でもあるし、その中で私たちの子どもたち、孫たちが過去を乗り越える新しい架け橋になってい
けるんじゃないかなと思います。

■日本政府に対する現時点での、具体的な希望を教えていただけますか。

Bさん 朝鮮学校の生徒たちへの差別を止めて学ぶ権利を保障してほしい。
 これから育つ子どもたちを新たな差別の対象にしないでください。そして、国交正常化交渉を進め、諸問題を話し合いと相互理解のもとで解決していけたら良いと思います。


懇談を終えて

 戦後、日本で行われてきた「平和教育」は、「戦地で失った兵士の命、空襲の惨劇さ、餓えをつくりだした戦争は、二度と起こしてはいけない」というものでした。多くの日本人の認識もまたその程度のもので、侵略され、植民地とされた人々の無念さ、屈辱感、生活の苦しさに思いを馳せることは、ほとんどなかったのではなかったかと思います。
 在日の人々との懇談で私たちが認識を新たにしたことは、

・ 戦後、戦争責任をGHQに任せて、自らの手では何も行ってこなかった日本には、侵略戦争への反省はなかったのだということ。
それは失言をくり返す閣僚だけの問題ではなく、私たち日本人すべての問題なのだということ。

・そのために、植民地政策が生み出した〝差別意識〟を政府も国民も持ち続け、今なお韓国・朝鮮人やその子どもたちへの差別が続いていること。

・朝鮮半島の分断を招いたのは日本の植民地支配なのだが、分断の陰に、米ソの冷戦にともなうアメリカの思惑があること。

・祖国を分断され、多くの離散家族が生み出された朝鮮半島の人々や、在日の人々が、何よりも強く望んでいるのは、「祖国の統一」なのだということ。などでした。

 崇高な理念をうたう日本国憲法を持ちながらも、強大な軍事力を持ち、朝鮮半島の分断を招いた植民地支配への反省なしに、ひたすらアメリカに追従する日本。そんな日本が、憲法を変えて、自民党の憲法草案が示すような戦前の体制に戻ってしまったなら、アジアの国々との関係はどうなってしまうのか、私たちは強い危機感を抱かずにはいられません。
 アジアの平和ためにも、日本の未来のためにも、改憲反対の運動をがんばらなくてはとの思いを強くしました。 
 また、在日二世、三世の方たちも、自国や自分たちの歴史を、もっと学んで、知りたいという気持ちを持たれています。今回の在日の方々との出会いをきっかけに、お互いをもっと知る機会を持つこと、「学習会」なども企画して、学び合う機会を持つことが必要なのではないかと、強く感じました。
 実現させませんか?                                              (文責 小沼)

 

〈4面〉 

映画・DVD上映から感じる風

                                           桐谷富美子
 憲法96条の改悪を含む改憲が選挙の焦点になった参議院議員選挙の様々な制約の中、「この時こそ憲法九条
を守る為の行動を!」と、創意を凝らして映画・DVD上映を企画しました。これはその時に寄せられた感想です。

「日本の青空Ⅰ」(来場者は280人。アンケートには120人が回答。その内、駅頭・路上・ポスト等のチラシを見て
 の来場者49人。合わせて43人が、「こうした取り組みに興味あり参加したい、情報を見て参加したい」と回答)。
 ・ 「押しつけだから日本人の作った憲法を」という何か変と思っていたウソが解明できた。
 ・ 自民党の言っている事がどう違っているのか分かった。知ること・一人ひとりの意識が大切。声を上げることも。
 ・ 日本国憲法の成り立ちを初めて知った。素晴らしい憲法ですね。
 ・ マスコミからの情報ばかりなので自分で調べる大切さを感じた。
 ・ 今こそ現在の社会・政治情勢について、国民一人ひとりが主権者として自らの問題として考え行動する事が
  求められているのではないか。
 ・ 大メディアに押し流されないよう、一人ひとりが他の人に伝えて行かないと…。
 ・ 女性こそ安倍内閣に反対しなきゃ。女性の心を動かす運動をどう展開できるのか。

DVD「憲法ってなぁに・・?」上映(伊藤 真講演)
 ・ 憲法と法律の違いも知らずにきた。無知はこわい。
 ・ 目からウロコ、良く理解できた。若者が少なくて残念。

DVD「おりづる」上映と有原監督のお話
 ・ 分からないことが沢山あったが分かって良かった。監督の「福島につながらない」のお話、重かった。
 ・ 一歩前に進むと新しい課題が立ち上がって来るが、志を同じくする皆さんと手を携えて歩き続けたい。    


お知らせ
DVD「日本の青空・日本国憲法誕生の真相」の活用を!
 ねりま9条の会では購入予定が取れず、カンパで購入します。(但し8万円分は会の予算で購入ずみ)
プロジェクター、スクリーンも一緒にお貸しします。 申込先 電話 03-3921-8023(大柳)

DVD「憲法ってなあに」伊藤真講演記録70分500円です!
自民党改憲案との対比で現憲法のすばらしさを解き明かす、眼からうろこの解説、人生観まで
 変わってしまうものです。 家族で、グループで是非見て感想を出し合ってみてはいかがですか!
                                  申込先  電話090-8847-3083(岡部) 

日本の青空Ⅲ 映画「渡されたバトン・さよなら原発」 試写会と実行委員会
        8月31日(土)13:00~17:00    
        東京土建練馬支部会館3階
            入場無料 
  どなたでも参加してください    問い合わせ先03-3921-8023(大柳)


ねりま DE ライブ  
ゆうたソロ活動15周年記念
    
           
    2013年8月18日 14:00〜17:00〜405
       練馬区役所20階交流会室  
        入場料 1000円

   主催 ねりま DE ライブ企画会議  後援 ねりま九条の会
問い合わせ先 03-3921-8023(大柳)   090−3965-5985(新村)  


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