116 号 2024年8月発行
「こども誰でも通園制度」と保育園
練馬区保育問題協議会 事務局長 伊藤 剛
政府が閣議決定した「こども未来戦略方針」の目玉政策「こども誰でも通園制度」を皆さんはご存知でしょうか。現在、全国100箇所以上の自治体で試行として実施、本格的に2026年から全自治体で実施すると政府は説明しています。
◆無資格の保育者も!
「こども誰でも通園制度」は親の就労の有無を問わず保育園などを利用可能にするもので、ネットを介して空いている施設と直接契約で予約を行う、生後6か月~2歳の未就園児が対象、月 時間までが給付の対象で、時間単位で利用できる仕組み。さまざまな基準は一時預かりと同様で、条件を満たせば保育士資格を持たない者が保育する事も可能となっています。
誰でも通園制度を利用するお子さんは保育園に入園している園児とは異なり、事前の面談がなかったり、保育を受ける時間も短時間であったり、登園も毎日ではなく時々通うことになります。場合によっては毎回異なる施設に子どもをあずけることもありそうです。
したがって保育者に慣れ安心して保育を受けられるようになるには、在園児よりも人手が必要になるのではないかと現場からは声があがっています。実際に一時預かりを担当した保育士は「慣れ保育が続くような感じ」「1対1の対応が必要に」「食事の時は特にアレルギーの対応など特に気を使う」などと話し、「誰でも通園」でも同じような状況になるのではないかと現場からは心配の声があがっています。「誰でも通園」を実施すると、在園児の保育より人手を必要とする事になるのであれば、通常の保育よりも費用が必要となります。
◆国民負担の「支援金制度」
政府は財源確保について、支援金制度を創設して保険料の一部として徴収すると説明しています。国民1人500円ぐらいと当初説明していましたが、それ以上の負担になりそうです。また、他の福祉・社会保障の見直しをして、国会では他の社会保障の切り下げは認められない。なぜ、社会保障以外から財源を持ってこられないのか?と議員が質問すると、政府は「他の財源で余分があれば、全て防衛費にまわすので子どもの予算にはできない」との趣旨で答弁しました。
他にも問題があり、「誰でも通園制度」を実施するにあたっては、新たな給付として保険 制度の中に位置付けると説明しています。これは、誰でも通園制度新設をテコに児童福祉法 条の市区町村の保育実施義務を廃止し、介護保険と同様の制度「子ども保険」などとして保険の仕組みへ転換して、公的保育を撤廃させる動きに繋がるのではないかと危惧する声が研究者などからあがっています。
◆東京都では
東京都に対して様々な保育関係の団体が、定員割れ時の運営費収入減を補うため補助を行うように求めています。保育問題協議会でも定員定額制など補助の実施を求め、都の担当職員と話しましたが「(欠員となって)子どもがいないところに予算を支出することは難しい」と説明します。そこで、空き定員を活用して新たに「誰でも通園」制度を創設したとも考えられます。実際に他の区では、欠員がいるので児童定数の見直しを区へ申し出たところ「定員を減らさずに、誰でも通園に取り組んで欲しい」と勧められたということです。
国や東京都が一体となって「誰でも通園制度」を勧めようとしていますが、「誰でも通園」と言うのであれば保護者の状況に関わらず、子どもたちに質の高い保育を保障すべきではないでしょうか。スウェーデンでは1985年に「すべての子どもに就学前保育を」として制度改正を行い、子どもの権利としてすべての子どもに保育が保障されました。日本では保育が必要と自治体に認められた子どもが全員入園できる状態ではない、隠れ待機児童の問題も解決していません。さらなる認可保育園の増設と様々な子どもたちをいつでも受け入れられるようにするため、子ども1人当りの面積基準や保育士などの職員の配置基準を改善し、体制を整えるべきです。
◆子どもたちにもう1人保育士を!
2024年3月 日、国の職員の配置基準の改定が行われ、3歳児は20対1から15対1へ、4・5歳児は30対1から25対1へと変更され、それに伴い都道府県の定める条例などが変更になったのですが、実態としては、すでに私たちの運動によって、東京都の多くの市区町村がさまざまな名目で増員の予算措置を行っています。保育現場では、さらに「子どもたちに、もう1人保育士を」求め、国会議員やこども家庭庁への要請などの運動が続けています。
子どもたちの集団の大きさも改善する必要があります。小・中学校では35人学級が進んでいます。35人学級では、36人になると18人と18人の学級にすることになっています。
一方で保育園ではそのような考えはありません。子どもたちの人数に応じて職員の配置が決められているのみです。ですから今の基準だと「おおむね25人の子どもに保育士1人(4・5歳児の基準)」なので、4歳児と5歳児を足して37人までは保育士1人、38人より多くなったら保育士をもう1人追加配置できるように運営費を増やす。という仕組みになっています。
練馬区内の保育園の多くは実際には4歳児のクラスと5歳児のクラスを作り、それぞれのクラスに子ども25人で保育士を2人配置する等、基準以上の職員が配置されています。基準以上の職員を配置しないと 時間以上も開園している保育園を運営できないので、区が国からの運営費にプラスして予算を支出しているのです。それでも保育の現場からは早番・遅番などの対応でズレ勤が多く1人の保育士でたくさんの子どもたちを見なければならない時間が多い、さまざまな配慮が必要な子への対応が必要など、さらなる職員の増員を求める声が常にあがっています。
◆運営困難に陥る民間保育園
そのような状況の中、悪質な経営を行い、職員の配置を切り詰め、本部経費や新園開設のためにお金を回すことや、さらには、実際にはいないのに、書類を改ざんして職員が勤務していることにして、補助金を不正に取得する事件などが明るみに出ています。
◆それでも廃園される公立保育園
このような会計の不正が疑われるケースが後を絶たない中、その一方で、不正請求や流用問題の心配がほぼないであろう、公立保育園の縮小を進める自治体が相次いでいます。保育士が一斉退職した保育園が小金井にあり、そのことにより運営困難に陥った園に通っていた子どもたちを、まさに廃止をしようとしている公立保育園が受け入れました。この例からも、いざという時に重要な役割を担うのが公立保育園であり、その存在意義が再確認されました。にもかかわらず公立保育園の廃園計画は継続しています。
◆保護者の望みは公立保育園
谷原小学校には毎年1年生のクラスが4クラスあると保護者からお聞きしました。しかし、谷原保育園は谷原にある唯一の保育園で、地域の子どもたちの保育需要には全く満たない受け入れ数でした。おそらく、谷原の子どもたちは、他の地域の保育園に通っていたのだと思います。
私たちは区の資料を元に、石神井公園駅付近の保育園の入園倍率を調べました。どの保育園も数倍から数十倍の倍率になっていて、入園できなかった子がたくさんいたことがわかりました。新しく区立谷原保育園の隣に私立新園が開園しましたが、谷原保育園が閉園になれば、谷原や石神井公園駅周辺の入園事情は厳しいままとなってしまいます。このことからも区立谷原保育園が存続することは重要です。
また、谷原保育園が閉園すると区立直営園は高松・石神井など近隣の地域を含め一切なくなってしまいます。奈良女子大学の中山徹教授(都市計画学)は日常生活圏である小学校区に最低1箇所は公立保育園が必要と述べています。
これまでも区は委託によって直営園をなくしてきており、谷原・石神井公園駅近辺の他にも、区・北東部である北町・平和台・氷川台地域の直営園は無くなってしまいました。一方で、東京都の調査でも区の調査を再集計した数字でも 〜 %の保護者は区立保育園に子どもを通わせたいとの希望を持っていることが、あきらかになっています。
区は待機児童が0になったと言いますが、地域によって需給関係には偏りがあり、地域の状況に応じた施設配置が隠れ待機児問題を解消する上でも、真の待機児童対策として、重要になります。また、地域の保育の要として区立直営保育園も日常生活圏に着目した配置とすべきで、区の政策を転換させる必要があるのではないかと思います。
国の貧弱な基準・制度を改善させるため長い年月にわたり、運動を積み重ねてきましたが、まだまだ、諸外国と比べて貧弱なのが日本の保育制度です。ここに取り上げませんでしたが、深刻な保育士不足の問題や保育園で起こる事故をどうなくしていくかなど課題が山積しています。また、少子高齢社会に対する対策も不充分なままです。
今後とも、保育や子育てについてみなさまに関心を寄せていただき運動にご支援頂ければ幸です。
都知事選 私たちの取り組みと今後の課題
桜台九条の会 松下真佐子
桜台九条の会は六月五日に都知事選の取り組みについてミーティングを開きました。まず野党統一候補の蓮舫氏について意見交換し、会としては「選挙に行こう」を訴えることを第一とし、候補者の応援については、各自が行なうこととしました。
具体的には、ねりま九条の会作成のチラシ五千枚を桜台地区にポスティングし、一ヶ月間に七回、練馬駅頭でスタンディングをしました。この間、会員以外にも自発的にポスティングやスタンディングしてくださる方が現れ、力づけられました。
投票日前日には駅頭で蓮舫氏の法定ビラの配布もしました。スタンディングのリレートークでは、小池都政の問題点や学歴詐称問題などをあげ、都政から日本の政治を変えていくことを訴えました。
結果として投票率が60・62%で、前回より5・62ポイント上回ったのは、それはそれで喜ぶべきことなのですが、蓮舫氏三位という結果はすぐには納得しがたいものがあり、一週間後の七月十六日にミーティングを開き、都知事選の振り返りを行ないました。欠席の方からもメーリングリストで意見が寄せられました。以下、出された意見の要点を挙げます。
◆選挙制度のあり方
まず、選挙制度のあり方(公選法)に問題がありすぎることが指摘されました。ポスター掲示板の問題や政見放送の節度のなさは言うまでもなく、公開討論会が行なわれなかったことは、大変大きな問題であり、拒否していた人を除いてもやるべきだった、拒否できないよう規則があるべきとの意見も出ました。
◆マスコミの問題点
次にマスコミの問題点も指摘されました。テレビで選挙報道をせず有権者に判断材料をあえて与えない、最初から大手メディアによって四名の有力候補が絞られているのも公平ではありません。毎回選挙のたびに言われることですが、終わってからの特番は意味がありません。マスコミの問題はスポンサーに気をつかうことが原因でメディアとしての社会的機能を失いかけています。これは社会の仕組みそのものの問題であり、一番の大きな課題です。
◆蓮舫氏について
蓮舫氏については、演説を聞いているうちに積極的に応援したくなってきたという人が多かったです。そう思う人が多かったから、自発的な一人街宣が広がったのだと思います。二月から六回に亘り立憲、共産、社民、新社会党、緑の党、生活者ネット、市民団体が対等に話し合って満場一致で決まった候補であることを周知できなかったのが残念だった。もっと早く政策を出した方が良かった。立憲の議員だけではなく、文化人や市民団体が前面に出た方が良かった等の意見が出ました。
◆自分たちの活動について考える
ねりま九条の会のチラシは都政の問題点をしっかり伝える大変良いチラシで、これを読めば当然、投票は有力対立候補の蓮舫氏になるだろうと思って配布しましたが、駅頭で「いったい誰を応援してるのか分からない」と言われたことがありました。また、今までずっと投票率を上げれば、自分たちの推す野党候補に有利と思っていましたが、今回決してそうでもないことがはっきりしました。
リレートークで「現在の都知事を認めることは、裏金の自民党政治を認めることと同じ」と訴えましたが、都政という地方政治と国政を一緒に語ることは適切な方策ではなかったのかもしれません。
東京都都市整備局のホームページにある「再開発促進地区(2号地区)一覧」(*注)によりますと、練馬区の再開発促進地区は、次の5地区で施行区域面積は合わせて5.9haです。
◆今後の課題
最後に、それでは、私たちは今後どのようにしていけば良いのかということを話し合いました。
①スタンディングのトークやチラシ
は政治に無関心な層にも分かりやすい内容を心がけていく
②投票率が上がれば、護憲派の野党が勝てると思って、「選挙に行こう」を訴えていたが、もっとはっきりしたメッセージを出さなないといけないのかもしれない。
◆結論として
①蓮舫氏や野党共闘、一人街宣への批判はそれが恐れられているからこその反応です。これからも今回の反省を踏まえて若いメンバーの意見を取り入れながら積極的に活動を続けていこうと思っています。
②公選法の不備が公正な選挙を阻むことがはっきりした今、不公平で不備だらけの国民投票法の下での改憲発議は絶対に阻止しないとならないとの思いを強くしました。
「融合」と「賑わい」の行方2
練馬区立美術館・図書館改築工事基本設計を読む
都市問題研究会・練馬 樋口 学
◆一年前の太田市からの警鐘
ちょうど一年前の酷暑の日、「太田市美術館・図書館」を訪ね、 そしてその訪問記「融合と賑わいの行方」を「ねりま九条の会ニュース」(111号)に載せて頂いた。 その訪問記の最後に、現地の水野市議会議員の「練馬ではこのような施設を作って後悔されないように」との警鐘を紹介させてもらった。
今回 続編の掲載を「九条の会」にお願いしたのは、基本設計が明らかになる中で、あの警鐘が現実味を帯びてきたからである。
◆柱がない?断面図がない?公表された基本政権「概要}
今年二月の区議会区民生活委員会に公表された。しかし公表されたのは基本設計図そのものではなく、基本設計概要(以下「概要」)であった。この「概要」の構成は配置図、各階平面図、立面図3面、内外透視図である。この構成を知ったとき、断面図がないことに強い違和感を覚えた。そして平面図や立面図には大きさ・長さ・高さを示す寸法などの表現が一切なく、縮尺の表示すらない。もっと驚くのは、平面図の多くの部分に「柱 」が見当たらないことであった。
肝心な事は隠して、 その替わりうるさい程のコメントが付け加えられている 。基本設計完了ならば、 その主要図面を公表すればいいのだろうが 、それができないところに「何か」が起きている。
◆区民は図面などわからない 練馬区の自信?
三月に練馬区は「 基本設計概要パネル展 」を行い、区民に 「概要」を公表した 。この会場での練馬区の担当とのやり取りは、練馬区が様々な指摘を受けても突破できると思っている心情が覗ける。前述した 「概要」への疑問・質問を率直にぶつけてみると、「いろいろ書いてあるとごちゃ ごちゃして見にくくなるので省略した」「あなたのように図面について質問してくる人はいません。区民は図面を見てもわかりませんよ 」と返事が来た。なるほどである。この変な自信がおしゃべりな説明を堂々とできる背景になっているのだろう。
◆三層構造の破綻 基本設計全資料を見る
「概要」 では埒が明かず、公文書公開請求 により全資料が入手できたのは四月初めである。そこには驚くような事ばかりであり、このような半端な図面を言葉で言い表す術は知らない。それでも誰でも理解できそうな幾つかを挙げてみる。
・「概要 」に出さなかった断面図があるが、 全くの未完成品である。それは 時間不足ではなく 本質的な未解決事項が多くて描き進める事ができなかった告白になっている。 断面図は平面図と合わせて設計のベースであり、それが描けないということは設計作業が暗証に乗り上げていることである。
・建築関係法令への不適合あるいは未解決が多くある。 その中には 建蔽率・容積率・最高高さ制限など、初歩的なものも含まれており、違反建築を区民に提案したのかが疑われる。
・図書館 は7層に分散され、 その上エリア中央に吹抜けが貫き、 吹き抜けを見せるための図書館。天井高は低く1階は1・9m。そのためにエレベーターの扉が納まらないという笑い話付き。
・柱や梁の構造計画図があるが 、それは平面図・断面図と整合せず、平面図に柱をプロットできなかった理由がわかる。 挙げればきりがないが、 それらの問題の多くは、この建築の骨格である 「三層構造」であることに気がつく。さらに「三層構造」自体の検討が一向に進んでおらず、成立しているのかさえ疑わしい。「諸室諸元表 」の中で満たされない事項が多くあるが、 打合せ議事録を読むと「 三層構造 」と「富士塚構想」がネックになっていることが多い。それならば 「三層構造 」を止めて一般的構造にすればと思うが、そうなれば練馬区が称賛し、選らんた設計者の構想が瓦解する。ここに問題の深刻さがある 。
※ 三層構造―建物をシェルター (中心部 )シェルフ( 中間部) シェイド(周辺部) で構成し、それぞれ異なる構造システムをとる。
◆概算工事費90億円だが最終値はどこまで上がる?
議会与党の中でも異議が出ているのが概算工事費である。設計条件の工事予算は76億円であった。プロポーザルの 提案 で設計者が示したのが75・99億円で予算内。それが今回基本設計で示されたのは89・79億円である。練馬区は建設物価の高騰と昇降機等が増えた事を要因としている。そして今後さらに工事費が吊り上がる可能性を否定できないでいる。否定できないのも当然である。柱がない構造や、多くの「実施設計の中で検討」を抱えた基本設計で、確信ある工事費の算出ができるはずがない。 契約書にある VE作業 が行われなかったことがその証左であろう。
◆「打ち合わせ議事録」に見見える設計を引き裂いた2つの立場
設計者と区側の第一回目打合せで設計者から「提案」の説明があり、図書館については「現状はスタンダードな図書館だが 本提案は現状から大きく転換した新しい図書館の提案である」との宣言がある。これに対して図書館担当側からは 「貫井図書館は地域の図書館のため、 今の機能を損なわず維持した上で特色を出していきたいと考えている 」との表明がある。この両者の立ち位置の違いは今回の設計業務全体を象徴するものである。発注者を前にしてこの設計者の態度には、練馬区に選ばれたとの自負があり、 講評で示された「 富士塚構想」への練馬区の大きな期待が背後にある 。練馬区自身に分裂がある。
この二つの立場は 最後まで融合して新たな空間を作り出すことなどなく 、ちぐはぐに混ざったままで、 誰も調整する意思を持たず区民の前に放り出された。それが基本設計図の実態である。
◆設計業務期間を1ヶ月延長理由は何だったのか?
今回の設計業務委託期間は昨年の12月18日までであったが、実質1カ月延長手続きを取っている。この延長が単に図面等の仕上げの時間不足のためであったのならば、あのような不備が多い図面は出なかっただろう。小手先の修正ではどうにもならない問題が発生していることを練馬区も知っていて、 どう切り抜けるか、どう公表するかの対策期間であった のではないか、と推測すると、「概要 」として公表した背景がはっきりする。
そうなると 練馬区は基本設計委託業務が完了していないことを知りつつ、納品検査を通したことになり、その責任が問われる 。
◆遭難したら間違ったところまで戻る
今後は実施設計に進み、その間区民への説明予定はないという。本来実施設計は工事や見積のため詳細を詰める領域であるが、今回は基本設計が残した未解決問題からの検討である。そこでは重大で多くの変更が避けられないであろう。このまま進めば、多額の税金を投入し、区長以外は誰も喜ばない施設になるだろう。
どこで間違ったのか 、プロポーザルの時点か、 改修から改築へ変えた時点か、いずれにせよ 、そこへ戻ることが必要であり、撤去工事未着手の今なら戻れるだろう。
冒頭に書いた太田市の場合は、旧駅前広場の更地での事業であるが、本事業は築 年の現美術館・図書館を壊し、サンライフ練馬を廃止しての事業であり、練馬が失うものは大きい。
成増飛行場から飛び立った特攻機、大和田通信隊土支田分遣隊
練馬の戦跡・戦災地を訪ねる
勝山 繁 「ねりま9条の会ニュース」編集委員
◆『うらはぐさ風土記』に登場する成増飛行場と特攻隊
2010年に『小さいおうち』で直木賞を受賞して以来、数々の文学賞を受賞している中島京子さんが書いた『うらはぐさ風土記』(集英社)にはウラハグサシティという大団地が登場します。
「ウラハグサシティは、1973年までは米軍の家族の住宅が建っていた場所で、その前は飛行場だったんです。しかも特攻隊の! 私、特攻隊って、みんな鹿児島県の知覧から飛んでたんだと思って。だけど、東京のうらはぐさあたりから、わたしたちが毎日こうやって生活しているこの場所から、特攻隊の飛行機が飛んでったって、びっくりしちゃったんです。うらはぐさの歴史って、こんなに戦争と繋がってるんだって思って」。
そう、ウラハグサシティは光が丘団地、特攻機が飛び立った飛行場は陸軍の成増飛行場がモデルです。
◆4カ月の突貫工事で完成、成増飛行場
日本陸軍の成増飛行場が造られたのは昭和17年(1942)4月18日のアメリカ軍による日本本土への空襲(ドーリトル空襲)がきっかけです。開戦からわずか5カ月後の空襲に衝撃を受けた日本は、帝都防空目的のため、飛行場の建設を計画。豊多摩刑務所の囚人や朝鮮からの出稼ぎ労働者、学徒までを動員し、昼夜交替制での突貫工事によって、同年秋には1200mの滑走路を完成、程なく本格的な基地が稼働します。
成増飛行場に駐留したのは陸軍飛行第47戦隊で、「震天制空隊」と呼ばれた特攻を主務とした戦隊で、70機が配備されました。
◆東京上空で墜落する特攻機
成増飛行場に配備された航空隊は、B29へ体当たりを少しでも成功させるために装備や防弾設備を外した戦闘機で戦うという極めて無謀な作戦を強いられました。
『カラスのパンやさん』、『ダルマちゃん』シリーズで子どもたちに親しまれたかこさとし(加古里子)さんがアメリカ軍のB29に飛行機で体当たり攻撃し、上空で炎上する飛行機とそこから落下傘をつけて落ちていく兵士の姿を描いています。落下傘は開いていません。かこさんが高校2年生だった1943年秋に、防空壕から見上げた悲惨な光景を一人称で語った「秋」と題した紙芝居の一コマです。
◆B29の中島飛行機爆撃で多数の犠牲者
成増飛行場に配備された戦闘機「鍾馗」を製作したのは中島飛行機、現在の株式会社SUBARU の前身です。1931年の満州事変以後戦争拡大の時流にのって急成長し、多数の下請企業を擁する中島コンツェルンを形成して三菱重工業とともに日本の軍用機製造の中軸企業となりました。
日本海軍の主力戦闘機ゼロ戦(零式・れいしき艦上戦闘機)の開発元は三菱重工業ですが、中島飛行機もライセンス生産が行っており、総生産数の6割以上を製造していました。
そのため、成増飛行場とともにアメリカ軍の空襲の対象となりましたが、生産の低下を恐れて避難命令が遅れ、220名の死者と500名を超える多数の負傷者が出ました。犠牲者の中には工場に勤労動員されていた近くの中学や女学校の生徒もおり、遺体は東伏見神社の裏手にある早稲田学院の運動場に運ばれて焼かれました。(『身近な地域で学ぶ戦争と平和』今井忠男著・光陽出版社)。
◆稲荷山憩いの森防空壕跡
最近になって、区民に知られるようになった練馬区内の戦跡に、稲荷山憩いの森に所在する「大和田通信隊土支田分遣隊防空壕」があります。400軒もの住居を立ち退かせる予定の稲荷山公園の整備計画に対し、反対の取組みをしている栗原保夫さん(大泉町1丁目在住)や岩瀬たけし区議(インクルーシブ練馬)が詳しく報告されています。
昭和 年9月に作成された「大和田通信隊土支田分遣隊の引渡目録」によると、土支田に地下送信機室、地下発電機室、半地下兵舎の3棟の地下施設があったとのこと。さらに発電機室と送信機室は通路で繋がっていた可能性があるとのことです。真珠湾からの暗号電報「トラ・トラ・トラ」を傍受したのも、「ポツダム宣言」の受信も大和田通信隊だと伝えられています(岩瀬区議の報告「稲荷山憩いの森 地下に日本軍の通信基地が。その全容がついに明らかに!」)。
大和田通信隊土支田分遣隊は、大本営海軍部特務班の大和田通信隊(現在の埼玉県新座市に所在)の支隊で、大本営陸軍部所属の北多摩通信所(現在の東久留米市に所在)とともに、アメリカ、イギリス、中国、ソ連などが発信する電波の傍受に専念していました。
◆かっての戦争の悲惨さを知ることは・・・・
『うらはぐさ風土記』著者の中島京子さんは、こう語っています。
『うらはぐさ風土記』のタイトルにしたとき、現代だけの話じゃないんだろう、その土地が昔どうだったのか、そんな話が入ってくるだろうなとは考えていました。特攻隊が出撃したのは知覧だけじゃなくて、東京の光が丘にあった成増飛行場からも飛んでいたと知ると驚きますし、それほど時間が経っていないのに、その頃のことをもう知らないですよね。戦争で大変な思いをした人たちがたくさんいたと思います。だから、戦場から戻って、PТSD(心的外傷後ストレス障害)で市民生活を送るのに苦労した人のこととか、現在と未来につながる歴史の要素は入れたいなと思ったんです。
敗戦から79年、憲法を空文化し、防衛費は世界5位以内と、軍事大国に仲間入りする日本。拡大する一方の軍事力について、「中国の脅威を訴えれば防衛費は青天井だ」とうそぶく防衛省幹部もいます。
このような中で、かっての戦跡あるいは戦災の史跡を訪ねることは、戦争による悲惨な被害の体験者が少なくなる今日、それを知るにとどまらず、加害者として、明治以降日本が繰り返してきた対外戦争で中国・朝鮮・アジアの国民に与えた犠牲に思いを馳せ、日本の軍事大国化に立ち向かう道を考えることにもつながると思います。
武田美通・鉄の造形「戦死者たちからのメッセージ」全作品展IN ねりま 開催を終えて
坂本幸子(武田美通・鉄の造形展 実行委員長)
昨年7月に文京区にある文教シビックセンターギャラリーに於て私が所属する、武田美通・鉄の造形・戦死者たちからのメッセージを広める会(略称・広める会)の主催で全作品展を開催いたしました。
5日半の日程でしたが、子どもからお年寄りまで沢山の方々に鑑賞いただき大変好評をいただきました。武田さんの略歴はチラシに載っていますが、小樽の教員夫妻の長男として生まれ、 歳の軍国少年として敗戦を迎えた事、母親は絵が上手だった事、演習中に自宅に分宿した
「優しい日本の兵隊さん」が還って来なかったのはなぜかとずっと考え続けて来た人であったことなどは作品に表れていると思います。骸骨でも作り手の心が籠っているので訴えるものがあり、心を揺さぶられずにはいられません。何度でも見たい作品です。一人でも多くの人にこの作品群を観て欲しいと思っています。練馬でもやって欲しいという声があり、それに応えて、5日間連続(最低でも5日間は欲しい)して取れる場所と日程を探しました。 それにはねりま九条の会の協力が欠かせませんでした。練馬駅に直結ともいえるココネリホール全面を5日間、平日でしたが押さえることができました。 そして今年に入ってから実行委員会形式をとり、広める会との共同で全作品の展示会を開催することになりました。広める会のメンバーは何度も様々な場所で開催経験がありますが、練馬では見たことも、触ったこともないメンバーもいましたので大丈夫なのかと心配されました。しかし広める会のメンバーはいつでも協力的で、作品も熟知していますので、心配には及びませんでした。広める会のメンバーは本当に遠方から応援に駆けつけて下さり、大変感謝しています。
そして何より広める会事務局長の仲内節子さんの精力的な働きで、広い会場にギャラリートークの場所を設定し、宣伝も兼ねトークをして下さる講師の方々をお呼びする事が出来ました。これは今までにない試みでした。二つ返事で引き受けて下さった講師に大変感謝しています。作品に絡めたお話は大変興味深く、作品の理解がより深まるものでした。ギャラリートークでは予約がいるのかなどの問い合わせもあり、作品と相まって興味を持たれた方もいらっしゃいました。
実行委員会では宣伝は主に練馬が担当し、様々な団体へのチラシ折り込み、ココネリから送ってくれる各地域区民館へのチラシ置き、区報の「みんなのひろば」への掲載、一般紙にも数紙にチラシ折り込みをいたしました。高校前でのチラシ撒き、街頭での宣伝(桜台九条の会)、お寺、教会、SNS、FB、個人でも何人もの人がチラシの拡散に協力して下さいました。
また開催初日の午前、まだ準備が終わっていない中、東京新聞の記者の方が取材に訪れ、写真を数枚撮り仲内さんに取材し、翌日の新聞に大きく掲載してくれました。そんな甲斐があり、1000名を超える入場者を数えました。アンケートも今集計中ですが、 「作品から叫びが聞こえてくる、迫力があり、素晴らしかった、写真では伝わらない、かつて経験したことのない不思議な体験だった」等々感想をいただきました。武田さんの思いが伝わった気がします。多くの方々のご協力で大成功だったと思います。これからもしっかり、宣伝していきたいと思いますし、保存場所(現在情報を求めています)も良い所が見つかる事を願っています。そして後を繋いでくれる人にバトンタッチして、武田作品を守り伝えていけたらと願っています。